桶狭間前夜:桶狭間合戦考之参

 
 
先に挙げた「足利将軍家が絶えれば〜」の文言は(出典が定かではないが)、今川家が足利家に近い存在である事を暗示していると思われる。
足利家は鎌倉時代より続く家系であるが、幕府を開いた足利尊氏よりも以前…、
尊氏の曽祖父・足利義氏の庶長子長氏が三河国の吉良荘(愛知県幡豆郡吉良町)を領し吉良家を興した。
            (忠臣蔵・吉良上野介の吉良家の祖である。)
その吉良長氏の次男国氏が近隣の今川荘(愛知県西尾市)で起こしたのが今川家である。
 
今川国氏の孫・範国から駿河国を領することとなる。
今川国氏の次男・貞世が遠江の守護となる。貞世の後、弟・仲秋が継ぐ。
今川仲秋は明徳−応永年間の一時期、遠江と尾張の守護職を兼ねていた。 遠江の領有を巡り紛糾。尾張守護斯波義達も一枚噛んでいた。
「永正三年、今川氏親蓮教寺に制札を出す」(『尾張國誌』尾張東部に今川氏の支配が及ぶ土地があった事をさす?)
永正十年(1513)、今川氏親、深嶽城に篭る斯波義達を夜討落城させる。
永正十二年(1515)、三河の大河内貞綱が遠江引馬城に篭もり斯波義達に援軍を求む。
今川氏親が攻め落城するも翌年、再び大河内貞綱と斯波義達が奪取。
再度、今川氏親が落城させる。
今川家の支配地は駿河・遠江と広がり、対して尾張の斯波家は衰退の道を辿っていく。
大永二年(1522)頃、今川氏親が那古野城を築き今川氏豊の居城となる。
 
三河では吉良家が東西(東条吉良・西条吉良)二家に別れ紛糾。
それに乗じて松平清康(徳川家康の祖父)が力を増していく。
松平清康は尾張を攻めるが、守山城に家臣に斬られ死ぬという守山崩れが起きる。
家督は嫡男広忠が継ぐが次第力は弱まっていき、三河は今川家の属国となっていく。
 
尾張では守護代織田家の傍系であった織田信秀が台頭。天文九年(1540)、三河の安祥城を攻め落とす。
今川家の家督を継いだ義元は天文十一年(1542)、尾張に向けて兵をあげ三河の小豆坂で合戦(第一次)。
天文十七年(1548)、第二次小豆坂ノ合戦。
翌十八年(1549)、安祥城を攻め落とし城主の織田信広(信長の庶兄)を捉える。
遡って天文十六年(1546)、三河の水野信元が離反し、人質として三河から駿河へ送り届けられるはずであった竹千代(後の徳川家康)が織田家に奪わていた。
この織田信広との交換条件で竹千代は駿河へ送られる事となった。
織田信秀死後、信長が家督を継ぐが小競り合いは続く。
天文二十三年(1554)、今川義元は尾張国知多郡村木に城を築き近隣の寺本城にも人質を差し出させ見方につけて 小河城の水野忠政を攻めようと図ったが、信長は美濃の斉藤道三の協力を得て後背の憂いを無くし村木城を攻め落とす。
弘治元年(1555)、三河の松平親乗が尾張国蟹江城を攻める。
もちろん、当時の三河は今川家の支配下にあるので、今川勢が尾張を攻めたと見ても良いだろう。
蟹江城は清洲や那古野の南西に位置する。
松平親乗はかなり尾張の奥深くへ侵攻したと言えよう。
永禄元年(1558)、尾張国内に領していた今川・松平方の品野城を織田信長勢が攻め敗退している。
永禄三年(1560)、に再び織田信長は兵を発し品野城を陥落させた。
信長は尾張鳴海城に山口左馬助を置くが大高・沓掛城をもて土産に駿河へ離反する。
後、今川義元は山口左馬助を謀反の罪(姦計?)により腹を切らせてしまった。
 
以上が桶狭間の戦(1560)が起きるまでの駿河今川家と尾張斯波・織田家との抗争の凡その流れである。
 
 
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これを眺めると今川義元は、決して尾張を上洛路の合間に攻め落とす等と容易く考えていたとは思いがたい。
確かに甲斐の武田家、相模の北条家と同盟を結んだ事で後背の憂いは無くなり、西上しやすくなったとは言える。
また小豆坂で戦った織田信秀が亡くなり「うつけ」と評判高い信長が家督を継ぎ、家臣の離反もあることで弱体化は免れぬと受け止めたとしても不思議ではない。
 
大軍を以って尾張を併呑したとして、軍が去った後に離反されては意味が無い。
京への途上で退路を塞がれてしまうと美濃・近江の勢力と挟み撃ちに遭う可能性もある。
美濃の斉藤家と近江の浅井・六角とて簡単に靡くとは思えない。
尾張に兵を残す事も考えられるが、減少した兵力で斉藤・浅井・六角と対峙する事となる。
とすれば尾張併呑後の地盤固めも必要になる。
数ヶ月は掛かろう。
そういった面から考えて駿河を立った大軍は、尾張を無駄なく迅速に支配下に抑える為が故の軍勢ではなかろうか?
 
 
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織田信長は幼少時代を那古野城で過ごした。
もともと那古野城は今川氏豊の居城であったと伝わる。
那古野城は今川氏親が大永二年(1522)頃、築いたとされる。
そしてこの地の抑えとして末子今川氏豊を城主に入れたという。
これには少々、不明な点もある。 今川家側の系図に今川氏豊なる人物が記載されていない。
今川氏親の末子であれば永正十六年(1519)生まれの今川義元の後に生まれた事となる。
那古野城近隣が今川氏の支配地であったとしても生後間も無い赤子を遠隔地の城主に据えるとは思いにくい。
今川氏豊が連歌を好むこと利用した計略で織田信秀は那古野城を奪取します。
天文七年(1538)頃とされますから、今川氏豊は18歳に満たない。
この歳で連歌会を主宰するのもであるから余程、風雅好みであったのだろう。
或いは、今川氏豊は今川氏親の子・今川義元の弟ではないかもしれない。
那古野荘の荘官の裔ある那古野氏は、実は今川仲秋の子孫であるという説もある。
 (今川仲秋=今川義元の六代祖範氏の弟。尾張国守護職。)
今川家の支流に名越・名児耶等の字をあてる「なごや」氏がいた様だ。
元々、名越氏は鎌倉幕府執権の北条家の支流である。
『今川氏家臣団の研究』(小和田哲男:著/清文堂出版)で、今川国氏の娘が那古屋氏の室となり、その子を今川基氏が養育し、今川一門に迎え入れたという経緯を記されておりました。
とすれば、今川氏豊はこの子孫なのかもしれない。
あるいは今川氏豊は実際に今川氏親の子であったが、この尾張の名児耶=那古野今川氏の跡継ぎとして養子に出されたのか?
という推察も出てくる。
無論、単に同じ氏を持っていただけの那古野の今川氏であった可能性も無い訳ではないが。
 
それらも踏まえながら。
今川氏親が那古野城を築き今川氏豊を置いたというのが事実であれば、尾張もまた部分的にしろ今川氏の支配権の 及んだ土地であると言える。
とすれば尾張東部(織田信長の勢力圏)を呑み込むという行動は、失われた今川家の領地を回復するという意味をも持つ事になる。
その時点で駿河今川家が最盛期の姿となるのである。
今川義元の狙いはそこにあったとする可能性は完全には否定できないと思う。
 (勿論、証明するにも材料が足らないが。)
 
 
 
 
 

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