ともかく、先に挙げた『日本戦史』の復刻本を見てみます。 駿河(今川)と尾張(斯波=織田)の交戦は桶狭間の役より遠く四十七年前(永正十年〜十一年)に はじまり、そのときは尾張方が遠江で敗れた(引馬城)。 二度目は十八年前(天文十一年)、駿河方がはじめて三河で敗れ、三度目は十二年前(天文十七年)、 尾張方もまた三河で敗れ(小豆坂)、ついには駿遠三の兵を尾張国内に入れて一大決戦をするに いたるのである。 もっとも、これは織田・今川両家の交戦だけを見ているのであって、義元の本当の目的は、 ただ織田を滅ぼして尾張を自分のものにしようということだけではなかった。 ここに記されているように、今川義元は桶狭間の合戦の折りに、突如として尾張へ侵攻した訳ではない。 幾度も織田方と今川方は小競り合いを繰り返してきていた。 (注:ここに記されているだけではない。後述。) その上で、大規模な大軍を擁して攻めてきたのは、単に尾張との決着を付ける為ではなかったのだと『日本戦史』は説いていた。 次の章で「義元の本当の目的」を明記している。 そのころ義元は、近隣諸国が無事なのをさいわい、かねての望みである京都にのぼり、 将軍足利義輝に謁して威名をあげようと考えていた。 要約すると ・尾張の斯波・織田家と駿河の今川家は長年、度々戦を繰り返してきていた。 ・今川義元は京都にのぼり、将軍足利義輝に謁して威名をあげようと考えていた。 明治期以降、「今川義元が将軍となる為に京都にのぼり途中の尾張を武力で従わせようとした」と一般的に流布されるようになった要因ではなかろうか? では、明治以前…江戸時代ではどうか? まずは『信長公記』の記述から。 御国の内へ義元引請けられ候の間、大事と御胸中に籠り候と聞へ申候なり。 という下りから桶狭間の戦の前の記述から始まる。 以降、備えについて書かれ、続いて 天文廿一年壬子五月十七日、 一、今川義元沓懸へ参陣。 今川義元が尾張へ侵攻した目的には触れていない。 では『信長記 (甫庵長記)』ではどうか? 爰に今川義元は天下へ切り上り、国家の邪路を正さんとて、数万騎を率し、 駿河国を打立ちしより、遠江三河をも程なく従え、恣に猛威を振ひしかば やや講談調が混じっている様な気もするが、それはともかく。 「国家の邪路を正さんとて」という文言で天下を目指すと考えた事が受け止められるが、幕府建て直し将軍を助けて戦乱の世を正すとも受け止める事も出来る。 この文面では、駿河を発し遠江・三河を斬り従えてから尾張に入った様に感じられる。 その辺りの誇張が講談掛ってしまう原因か? 或いは義元の先代輝氏からも含めて天下へ切り上るろうとしていたと言う意味なのか? やはり、ただの誇張の念が強いと感じる。 次に『織田軍記 (總見記)』ではどうか? 永禄三年の夏の比、今川治部大輔源義元、駿河三河遠江の大軍を引具し、天下一統の為に 東海道を上洛するに、先づ尾州を攻平げ、攻上らんと企てらる はっきり「天下一統の為に東海道を上洛する」と書かれている。 執筆順が『信長公記』→『信長記』→『織田軍記』という順で下っていくのであるが、これを見ると、当初は定かではなかった「尾張侵攻」の理由が時とともに解ってきた…或いは、「作られてきた」と見るべきか。 * * * * * * * * * * * * * * * 足利将軍家が絶えれば、吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ。 そういう了解があると聞く。 しかし、その出典は何か私は知らないので、そのまま受け止める訳にはいかなかった。 足利将軍家は絶えてはいない。 かっての隆盛は面影も無いだろうが、第十三代将軍足利義輝が存在している状態で、いくら名門とはいえ、一守護職に過ぎない今川義元が将軍を拝し自分が取って代わればどうなるか? 騒乱の種を増やすだけである。 「将軍に謁して威名をあげる。」という事の方が現実味がある。 むろんそれとて容易い事ではない。 攻めの手順からすれば尾張を攻め取る方が優先的であろうと思う。 先に挙げた様に、尾張は今川家にとって積年の敵であるのだから。 |
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