マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
 織田 信実 
  おだ のぶざね  
 生 没 年   15??〜15??   主君・所属   織田信秀・信長? 
 活躍の場など  小豆坂の戦 
 
   
 織田信実。四郎三郎。 幼名、不明
 
 生母不明。
 
 織田信秀の弟であり織田信長の叔父にあたる。
 織田信秀の兄弟は信康、信光信実信次がいる。
 この兄弟は皆、武篇者と伝えられている。
 
 天文十一(1542)年8月、三河の小豆坂の戦いに加わる。
 
 織田信実が文献に登場するのは2点のみ。
 つまり『信長公記』首巻に於いて、織田信秀の兄弟を記した部分と、小豆坂の戦いに参加した武将の名前を記した部分。
 以降、『甫庵信長記』や『總見記』等も単に、この部分を写しているだけで、織田信実について筆を加えていない。
 
『織豊 興亡史』掲載の「系図叢書・第七冊(名著出版)」犬山織田家系図では織田信実の子として信成の名がある。
 織田信成は織田信光の子であろうから誤りか?
 織田信実は四郎三郎という名を持つが同じ四郎三郎には織田信昌がいる。
 織田信昌は織田信光の子で織田信成の弟にあたる。
 このあたりが混同されたのであろうか?
 
 織田信長にとって叔父にあたり家臣団の中でも有力な位置にいるであろうはずの織田信実が『信長公記』の小豆坂の戦の項以降、登場しないのは、信長が家督を継いだ時点で、既に亡くなってしまっていたのかもしれない。
 
 没年、法名不明。
 
 
 
 
 補
 
 
 足
 
 
 
 
 
 
   
 * 小豆坂の七本槍 ----- 天文十一年(1542)、岡崎の小豆坂における戦い。
                    信長記外伝8巻「父・信秀」参照
 
 
 << 参考 >> 尚、織田信光の兄弟について 
『織豊 興亡史』掲載の「清洲織田氏推定系図(宝田寿男推定系図)」では、 
 「信秀・信康・信光・信実・信行・信房・信次」と推定されている。 
 同じく「系図研究の基礎知識(近藤安太郎著)」では 
 「信秀・信康・信光・信実・信次・信正」と推定されている。 
 共に詳細不詳。 
 『新訂 寛政重修諸家譜』巻四百八十八の織田系図(信浮)では
 「信秀・信康・信正・信光・信実・信次」
 信正の扱いが系図によって異なる。信憑性は定かではない。
 
 
   
 
 
 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
  『信長公記』   太田牛一  角川日本古典文庫
  『信長記』   小瀬甫庵  現代思想社
  『群書系図部集 第四』   続群書類従完成会
  『尾張群書系図部集(上)』   加藤国光 編 続群書類従完成会
  『織豊 興亡史 三英傑家系譜考』   早瀬晴夫著 今日の話題社
     
    その他、参考文献紹介頁参照
 
 
 
 
 

 戻 る 織田家中編トップへ戻る

 
Click here to visit our sponsor