マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
 織田 信光 
  おだ のぶみつ  
 生 没 年   15??〜1555   主君・所属   織田信秀・信長 
 活躍の場など  小豆坂の七本槍、清洲城攻略、稲葉地・守山・那古野城主 
 
   
 織田信光。孫三郎。 幼名、虎千代(推定)注:1 津田氏も称する。
 豊後守。  法名、梅岩(梅巌)。凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公居士。
 生母不明。
 稲葉地城城主。守山城主。那古屋城城主。
 
 織田信秀の弟であり織田信長の叔父にあたる。
 織田信秀の兄弟は信康、信光、信実信次がいる。
 この兄弟は皆、武篇者と伝えられ織田と松平・今川連合軍が激突した小豆坂でも功名を得ており、
 殊に織田信光は秀でた功名を得た七人の武将(小豆坂の七本槍)の一人に数えられる。
 織田信光は武篇は兄弟の中でも光っていたのであろうか
 『信長公記』首巻において
 
  備後殿御舎弟織田孫三郎殿一段武篇者なり。    と、わざわざ一文を設けている。
  (備後殿=織田信秀) 
 
 
 『言継卿記』に織田信秀の十一歳の弟、虎千代の記載あり。
 
  三郎弟虎千代太鼓打候了 
  (三郎=織田信秀) 
 
  虎千代、蔵人方へ食籠とくり持来見物 
 
 織田信秀のすぐ下の弟・織田信康は『言継卿記』にも「織田与二郎」として登場する為、 
 虎千代はその次の弟・織田信光と推定されている。
 
 
 織田信秀の死後は信長に協力。
 織田信秀の遺言として「群書系図部集巻百四十二 織田系図」(『群書系図部集 第四』収録)に
 
   信長信光相互成父子之思    とある。
 
 織田信秀死後は信長・信光互いに父子と思い接っしよという事か。
 それだけ織田信秀の信認が篤かったという事か?
 或いは訓戒の意味か? …定かではない。
 
 稲葉地城を築くというが築城年は諸説ある様でよくわからない。
 織田信秀が亡くなった頃は守山城主であった様だから、それ以前の築城か?
 居城を守山城へ移したあとは子の織田玄番充が稲葉地城主を継ぐ。
 
 天文二十一(1552)年八月、清洲の小守護代坂井大膳が織田信長と対峙する。
 坂井甚介・川尻与一・織田三位らと共謀し、松葉城へ駆け入って織田伊賀守を人質とした。
 さらに織田右衛門尉の深田城にも押し入りこれも得る。
 織田伊賀守について詳細不明。
 『尾張國誌』には 
 
  薙髪して仙者又善射といいし    とある。
 
 織田右衛門尉についても詳細不明。
  (織田達順とする説もあるようだ。---『織豊興亡史』の検証一覧で記載)
 松葉城、深田城はともに海部郡大治町にある。
 当初、この織田右衛門尉とは織田信光の弟信次の事であろうかと考えていた。
 実際、織田信次は『群書系図部集織田系図』にも右衛門尉とも記されている。
 だが、海部郡には深田城が二ヶ所あるそうだ。
 海部郡大治町の西隣、七宝町にも深田城があると『七宝町史』記述があるという。
                  (---『史跡散策 愛知の城』)
 この戦で織田信光は守山城より兵を出し信長と合流。
 『信長公記』において 
 
  信長---(中略)---那古野を御立ちなされ、稲葉地の川端迄御出勢。 
  守山より織田孫三郎殿(=信光)懸付けさせられ 
  松葉口・三本木口・清洲口三方へ手分けを仰付けられ 
  いなばじの川をこし、上総介・孫三郎殿一手になり海津口へ御かゝり候 
 
 稲葉地の城は元々織田信光の城であり、子の玄番充が守る。
 織田信光にとっては庭先の様な土地であったのだろう。
 いなばじの川は稲葉地の西を流れる現・庄内川であろう。
 松葉口は稲葉地の南、三本木口は庄内川を越えた稲葉地の西側。
 清洲口はそのまま三本木の北に位置する現・清須市の清洲。
 ただ清洲の東に須ヶ口という地名が有る。こちらが清洲口になるのだろうか?不明。
 海津口は三本木と清洲に挟まれた現在の萱津と推定されている。
 
 この戦いにおいて『信長公記』では織田信光の小姓であった赤瀬清六の武辺ぶりを紹介するが、
 敵将の坂井甚助に討たれてしまう。
 この坂井甚助を織田信長の家臣、中条家忠と柴田勝家が討つ。
 清洲勢力を打ち負かし、松葉城・深田城ともに奪還する。
 
 天文二十三(1554)年一月、村木攻城戦。
 村木城は知多郡村木(現・東浦町森岡)にある。
 規模が小さい為か村木城と言わず村木砦と書かれる場合も有る。
 この辺りは水野忠政の領地である。
 水野忠政の娘が徳川家康の母御大の方である。
 水野氏の領地は尾張と三河の勢力に挟まれた地であった。
 それゆえ代々、時に織田家、時に松平家と外交を繰り返しその領地を守ってきた。
 この時点では織田家と誼を交わしている。
 この水野忠政、さらにその後ろの織田信長に牽制を仕掛ける為に、今川義元が村木城を建てたのであろう。
 
 村木城は北に節所…(これは要害という意味であろうか?)守備は手薄であったということであるから余程、
 攻めにくい場所なのだろう。
 東が大手で水野忠政が攻め、西が搦手で織田信光が攻める事となった。
 織田信長は南から攻めたが大堀に阻まれ被害は甚大だった。
 鉄砲を撃ち放ち漸く突き崩しに成功する。
 『信長公記』において 
 
  鉄炮取かへ取かへ放されられ、上総介殿御下知なさるゝ間、我も我もと攻上り 
      (上総介殿=信長) 
 鉄砲を取り換え取り換え撃つという描写が、その後の長篠の戦いを彷彿させる。
 織田信長は村木城を攻め滅ぼす心算であったらしいが、味方の被害も多く、城からの降伏申し出を受け入れた。
 
 搦手を攻める織田信光の麾下、六鹿が外丸に一番乗りしたと『信長公記』にある。
 六鹿という武将の詳細はわからない。
  (むしか・むしが・むつしか…読み方は多々あり、この武将の読みもわからない
 
 
 天文二十四(1555)年四月、織田信長の排斥を企む守護代織田彦五郎信友・小守護代坂井大膳に乞われ清洲城に入城する。
 つまり信長を見限り、反信長勢力の信友に就いたという。
 だが、これは既に織田信長と示し合わされていた謀であり、織田信光は清洲入城の翌日、織田信友に詰めより切腹させ、坂井大膳を城から追い出した。
 この功により清洲城は織田信長のものとなった。
 そして織田信光は褒美として那古屋城を得る。
 この時、守護代派からは協力の代償として守護代待遇を、織田信長からは下四郡中2郡を提示されていたという。
 褒賞を量りにかけたのか? もとより織田信長を裏切る気はなかったのか?
 2郡領有の話は定かでは無いが、結果としての報酬は守山城を弟織田信次に譲り那古屋城に移り河東を得た。
 「河東注:2 」が何処の地をさすのか定かでは無いが庄内川の東という意味であろうと思われる。
 城としての格は守山城より那古屋城が上である事は間違いないであろう。
 
 だが、同年十一月、突然死去する。
 郎従の坂井八郎に生害されたのだ。
 これは先に織田信友に(形の上でも)従った際に同盟の誓約として起請文を書いたため、その裏切り行為の代償として
 天罰が下ったものだと噂された。
 また一方、織田信長の謀略であった主張する説も有る。
 織田信光が必要以上力を蓄えることが新たな分裂を生むと考え早期に排除したものだろうか。
 
『尾張國誌』によれば織田信光の領地は10万石にのぼるとある。
 根拠は解らないが、これが本当であれば、信長にとっても驚異的な存在であったと思われる事には頷ける。
   江戸時代における尾張藩の家禄は62万石である。
   未だ織田信長は尾張を統一していない事、これ以降の開墾や新田の石高を考慮に入れても10万石は非常に多い。
 
 後に織田信長の弟、織田信勝は謀反し降伏後、さらなる謀反の疑いを受け殺されている。
 別の弟、織田信時は家臣の角田新五に殺されるが、これも織田信長の命による事を示唆した文書もある。
 織田信長の尾張統一過程において一族の粛清を行なったという見方も出来るが、確証は無い。
 後世、文書が作成された折、その当時の信長評が織り込まれたとも考えられる。
 清洲を手中に入れたとはいえ、未だ尾張を統一出来た訳ではない。
 先に書いた様に織田家中でさえ謀反の種を抱えている状態に於いて、織田信光は親信長派一番の実力者である。
 いずれ敵に廻るかもしれない実力者を今のうちに葬ったのか?とみる視点もあり得ない訳ではない。
 だが、やはり未だ不確実な地盤・家臣しか得ていないこの時点での謀殺はしないだろうと私は考える。
 
 
 没日、弘治元(1555)年十月二十八日 
 凌雲寺で葬儀が行なわれ 法名、凌雲寺殿前豊州太守泰翁凌公居士(『尾張國誌』) 
 また、『群書系図部集 織田系図』では 「法名、梅岩。」とある。 
 
 
 
 
 
 補
 
 
 足
 
 
 
 
 
 
   
 * 小豆坂の七本槍 ----- 天文十一年(1542)、岡崎の小豆坂における戦い。
                    信長記外伝8巻「父・信秀」参照
                    一説にこの時、信光28歳。
 * 守山城・清洲城入城 --- 信長記外伝1巻「守山城」参照
 
 
 子は系図上(『群書系図部集』より) 
   津田信成 
   織田信昌 −−−− 四郎三郎。池田の戦で討死。(摂津国池田か?)
   織田仙千代 −−− 天正二年伊勢長島で討死。
 同く (『尾張國誌』より) 
   玄番充 −−− 稲葉地城二代目城主。永禄十二年十月没
           上記の信昌の事か。
  『尾張國誌』では続いて、玄番充の子として与三郎(桶狭間の戦で討死)。
   与三郎の子として小藤次(本能寺で討死)と記載している。
  『旧参謀本部 桶狭間の役』の将士姓名表に「織田与三郎宗政、信平の子」とあり戦死に印がある。
 
 これら系図を統合すると
 
  織田信光―┬― 信成 ―― 正信(源三郎)┬― 正成 ―--- 
       │              └― 利信 ―--- 
       ├― 信昌(信平・玄番充)―― 宗政(与三郎) ―― 小藤次
       └― 仙千代
 と、なるか。
 
 
 但し『織豊 興亡史』に紹介されている「宝賀寿男氏による推定系図」では
 織田信秀の叔父・織田定政注:3(津田豊後守)の子を信平・玄番充に当てている。
 
 
 << 参考 >> 尚、織田信光の兄弟について 
『織豊 興亡史』掲載の「清洲織田氏推定系図(宝田寿男推定系図)」では、 
 「信秀・信康・信光・信実・信行・信房・信次」と推定されている。 
 同じく「系図研究の基礎知識(近藤安太郎著)」では 
 「信秀・信康・信光・信実・信次・信正」と推定されている。 
 共に詳細不詳。 
 『新訂 寛政重修諸家譜』巻四百八十八の織田系図(信浮)では
 「信秀・信康・信正・信光・信実・信次」
 信正の扱いが系図によって異なる。信憑性は定かではない。
 
 
 
 注
 
 釈
 
 
 
*注1: 
 
幼名は定かでは無いが『言継卿記』に織田信秀の十一歳の弟、虎千代の記載あり。
元服前の信光であろうかと推定されている。
*注2: 
 
「河東」が「海東」の誤記であれば清洲の南側、甚目寺や日置城の辺りを海東といい、
このあたりとも考えられる。
*注3: 
 
この人物、詳細不明 
 
 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
  『信長公記』   太田牛一  角川日本古典文庫
  『信長記』   小瀬甫庵  現代思想社
  新訂増補 言継卿記 第一』   山科言継 国書刊行会 編  続群書類従完成会
  『群書系図部集 第四』   続群書類従完成会
  復刻改定補 尾張國誌』   東海地方史学協会
  『織豊 興亡史 三英傑家系譜考』   早瀬晴夫著 今日の話題社
  『織田信長家臣人名事典』   高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館
  旧参謀本部編 桶狭間・姉川の役』   旧参謀本部編 徳間文庫
  『織田一族のすべて』   新人物往来社
  史跡散策 愛知の城』   山田杣之 著 マイタウン
     
    その他、参考文献紹介頁参照
 
 



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