マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
 織田 信次 
  おだ のぶつぐ  
 生 没 年   15??〜1574   主君・所属   織田信秀・信長 
 活躍の場など  守山城主、伊勢長島の戦  
 
   
 織田信次。孫十郎。 幼名、不明。 津田の苗字も名乗る。
 右衛門尉。
 生母不明。
 守山城主。
 
 織田信秀の弟であり織田信長の叔父にあたる。
 織田信秀の兄弟は信康信光信実、信次がいる。
 この兄弟は皆、武篇者と伝えられ織田と松平・今川連合軍が激突した小豆坂でも功名を得ており、
 
 兄の織田信光が守山城から那古野城へ移ったのを機に織田信次が守山城に入った。
 守山城についてはリンク先にも逸話を載せている。
 さて、尾張国の平野部を斜めに分けているのが庄内川である。
 庄内川は現在の岐阜県恵那市から発し、愛知県は瀬戸市と春日井市の市境を流れ名古屋へ注ぐ。
 岐阜県内では土岐川・愛知県内では庄内川と呼ばれているが、庄内川も昔は地域によって玉野川・松川・勝川…と異なった名称で呼ばれていた。
 今日でも、地元に古くから住む人は「玉野川」等、古い呼び名でも通じる。
 途中、(現:名古屋市北区)矢田川と合流する。
 矢田川は瀬戸市を水源とし、名古屋へ入る。
 庄内川と矢田川に挟まれた名古屋の地が守山区となる。
 この守山区の南西、矢田川が弧を描き庄内川との距離が狭くなり始めるあたりの小高い丘に守山城はあった。
 
 話を本題に戻す。
 天文二十四年(1555)、織田信次が家臣を連れて庄内川の松川渡で川狩りをしていたところ一人の若武者が馬に乗ったまま通り過ぎようとした。
 
   六月廿六日、守山の城主織田孫十郎殿、竜泉寺の下松川渡にて、若侍共川狩に打入りて居ます所を、
   勘十郎御舎弟喜六郎殿、馬一騎にて御通り候の処を、馬鹿者乗打を仕候と申候て、
   洲賀才蔵と申す者弓を追取、矢を射懸け候へば、時刻到来して其矢にあたり、馬上より落ちさせ給ふ。

                                     (『信長公記』)
 
 当地を治める領主の前を挨拶もせず下馬せず通るとは何事か!
 という事でしょう。
 領主である織田信次の家臣洲賀才蔵が弓をかけたが…
 いきなり射殺すとも思えないので負傷も覚悟の威嚇であったのだろうと思う。
 ところが、威嚇どころか見事に命中、絶命させてしまう。
 若侍とあるから血気に逸ってしまったか、或いは未熟ゆえ狙いが反れたか…
 織田信次達は川からあがって遺体を見れば、見覚えのある顔がそこにあり、さぞ驚いた事であろう。
 
 「勘十郎御舎弟喜六郎殿」とは「織田信勝(信行)の弟、織田秀孝」のこと。
 兄弟の中で織田信勝を選んで「弟」と記したのは、二人が同腹(同じ生母)の兄弟だからであろう。
 織田信勝の生母は織田信長と同じく土田御前である。つまり…
 
   川よりあがりて是を御覧ずれば、上総介殿御舎弟喜六郎殿なり。
   御歳の齢十五・六にして、御膚は白粉のごとく、たんくわのくちびる柔和のすがた、
   容顔美麗人にすぐれて、いつくしき共中々たとへにも及び難き御方様なり。

                                     (『信長公記』)
 
 洲賀才蔵が射殺したのは織田信長の同腹の弟であった。
 皆、慌てふためき逃げ出した事であろう。
 織田信長・秀孝の叔父である織田信次に至っては
 
   孫十郎殿は取る物も取敢へず、居城守山の城へは御出でなく、直に捨鞭を打って何く共なく逃去り給ひ、
                                     (『信長公記』)
 
 織田信次は逃げ出した。
 居城へ戻る訳ではなく、織田信長の元へ弁明・謝罪に出ることなく、姿をくらませたのだった。
 
 これを聞きつけた織田信長はただ一騎で駆けつけた。
 いや、駆けつけようとた。
 守山城の手前、矢田川まで来たときに犬飼内蔵という者が現れ、状況を伝えた。
 
   勘十郎殿此事聞食、末森の城より守山へ懸付、生城になされ
         (中略) 
   町は悉く勘十郎放火なされ候
 また 
   孫十郎は直に何く共知らず懸落候て、城には誰も御座なく候
                                     (『信長公記』)
 
 今、織田信長が守山城へやってきても城主織田信次は逃げ出し行方知れず、城内に篭る者も無し。
 城下の町も既に織田信勝によって焼き払われてしまっていると。
 犬飼内蔵が何者であるか?は解らない。
 守山城に詰めていた織田信次の家臣かもしれないし、守山の住人だったのかもしれない。
 本能寺の変の折、二条御所で織田信忠と共に討死した家臣の中に犬飼孫三という名も見えるが、その関係も不明。
 ともかく、織田信長がここまでやってきた時には糾弾すべき織田信次は行方をくらまし、
 責める家臣達も見当たらず、
 領地は既に焼き払われてしまっていた。
 織田信長が来たとてなす術も無い。
 
 
   我々の弟などと云う物が、人をもめしつれ候はで一僕のものゝごとく馬一騎にて懸けまはり候事、
   沙汰の限り此興なる仕立なり。
   譬存生に候共、向後御許容なされ間敷と仰せられ、是より清洲へ御帰り。

                                     (『信長公記』)
 
 織田信長の弟たる者が供を連れず一騎で出歩くとは、織田秀孝の方に非がある。
 そんな分別ではどうせ長生き出来なかっただろう。
 そう言って引き返した。
 
 ある者は真っ先に駆けつけ仇を討つが如く町を焼き払った織田信勝の機敏さと武勇を称える事だろう。
 弟である織田信勝に先起こされなす術も無く帰るどころか、織田秀孝の方が悪いと言い放った織田信長を
 無能の人・無情の人と誹るかもしれない。
 
 だが、守山城下の町人村人とて同じ織田の領民。
 織田信勝の仕打ちを「やり過ぎ」と判断し、非を織田秀孝に着せる事で、これ以上守山城下の武者も町人村人も
 責めを負わさないと示す事になる言動は領民の心を救ったとも言える。
 
 織田信次に話を戻す。
 織田信次は何故、逃げだ出したのか?
 織田信長が評判通りの「うつけもの」であれば、開き直るなり、誰かに仲裁を頼むなりした事であろう。
 だが、織田秀孝は、もう一方の(反信長の)要である織田信勝の同腹の弟でもあったのが命取りであった。
 責めを負うことからは逃げる事は出来ない。
 それでも、家臣も何もかも捨てで一目散と逃げ去ったのは何故だろうか?
 
 仮説:1
 織田信勝が直ぐに駆付け町を焼き払った様に、織田信勝の気性は実際に非常に荒いものであった。
 それ故、織田信次は織田信勝を恐れ逃げ去った。
 
 仮説:2
 織田信光が織田信長を支えていた様に、織田信次も親信長派であった。
 同時に織田信長を「うつけもの」と侮るのではなく、後の家臣達がそうであった様に畏怖していた。
 
 どちらであろうか?
 
 さて。
 織田信次が何処をどう逃げ、隠れたのかは解らない。
 守山城には織田信長の別の弟・織田信時がはいった。
 しかし織田信時は守山城の重臣角田新五の謀反にあって自害してしまう。
 
 その後、弘治二年(1555)、織田信次は赦され守山城主に返り咲く。
 何処で見つかったのか?捕らえられたか?
 或いは自ら出頭したのか?
 
 以降、織田信長に従ったと思われるが、その詳細は伝わっていない。
 織田信長と織田信勝との間の争いや桶狭間の戦には当然加わったであろうが、文献上には残されていない。
 
 次に『信長公記』に登場するのは、天正二年(1574)。
 伊勢長島の一向一揆攻めの一つ篠橋を攻撃中に討死してしまった。
 
 
 『信長公記』ではその後も織田孫十郎の名が見られる。  これは織田信次の子であろう。
 天正九年の馬揃で「御連枝の御衆(一門衆)」、同十年の武田攻略戦の記中にそれぞれ登場する。
 しかしそれ以外はわからない。
 
 
  没年:天正二年(1574)九月二十九日
 
 
 
 
 補
 
 
 足
 
 
 
 
 
 
   
 子は不明だが、織田信次死後、『群書系図部集』に織田孫十郎の名が見られることから推察して) 
 織田孫十郎 −−−− 天正九年馬揃で御連枝の御衆。武田攻めに従軍。後、織田信雄に仕える。
 
 同く (『群書系図部集』「織田系図」より) 
 織田刑部大輔 −−− 法名宗養。その子に中川重政・津田盛月・木下雅楽助(但し信憑性に疑問あり)
 
 
 
 
 
    
 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
  『信長公記』   太田牛一  角川日本古典文庫
  『信長記』   小瀬甫庵  現代思想社
  『群書系図部集 第四』   続群書類従完成会
  復刻改定補 尾張國誌』   東海地方史学協会
  『織田信長家臣人名事典』   高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館
     
    その他、参考文献紹介頁参照
 
 
 
 
 

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