第 8 巻

 火起請とりすまし候



    裁判というものはいつの時代でも存在する。

    戦や力技を用いず、話し合いで事の真偽・是非を問うことは敵味方の間ならまだしも

    身方・身内の間では必要不可欠である。

    ただ、古の裁判は今日のそれとは少々違う。

    盟神探湯(くがたち)という言葉を聞いたことのある方も多いはず。

       (学校でも習うしね。

    古代の日本で行われた裁判方法で神に誓いを立てた被疑者が熱湯を手で探る。 

    すると、正しい者はなんともないが、邪な者は手がただれてしまう。 

    真偽の判定を神様の庇護に任せるというわけであるが・・・

    今、こんな方法で事の真偽を問うことは非現実的すぎるが、古代の日本にかぎらず

    結構後世まで似たようなことをしていたのである。



甚兵衛と左介


    織田造酒正という武将が居た。(信長公記)

    小豆坂の七本槍にも数えられる織田の猛将で 織田造酒丞信房という者がいるが同一人物か? 

    同一人物としている文献もあるから正と丞の記述間違いかもしれない。

    織田造酒丞信房は織田姓を称しているが実際は織田一門ではないらしい。

    功績のめざましい武将に主君が同姓を与え一門の如く重用した例は少なくない。

    織田造酒丞もそういった一人なのか?

    彼の子は菅屋氏を称している。 

    菅屋九右衛門長頼は信長の馬廻を勤め北陸方面の政務も担当している。

    本能寺の変に際し孫の角蔵は信長の小姓として、長頼はもう一人の孫・勝次郎と共に

    二条御所で奮戦、討ち死にした。

    とにかく、この織田造酒正の家来に甚兵衛という庄屋がいた。 

    今の愛知県稲沢市あたりである。


    そして、そこからさほど遠くない所に左介は住んでいた。

    左介は池田勝三郎恒興の家来である。

    池田勝三郎恒興は信長とは乳兄弟の間柄。

    家門・武将としての格は、それほど高いものでは無かっただろうが、 

    時の人・信長の乳兄弟である。 その勢いはうかがいしれるものがあろう。


    さて、一二月のある夜。

    左介は甚兵衛の館へ盗みにはいった。

    おりしも年貢を納めるために当の主人は留守をしている。 

    多分、計画的な犯行であろう。

    ところが、昔も今も女房は強い。

    押し入った賊に抗して左介と甚兵衛の女房が取っ組み合う。

    左介は何とか逃げ出したが、この時刀の鞘を女房に取り上げられてしまった。



火起請はかくのごとく


    甚兵衛はこの鞘を証拠の品として尾張守護斯波氏へ訴え出た。

    だが両者、それぞれ自分の言い分を主張しあっておれない。

    多分、左介もその鞘は落としたとか盗まれたとか主張したのかもしれない。

    しかも尾張国守護斯波氏は名目だけの守護となり果て、実権は織田家が握っている。

    訴訟の当事者は織田の老臣の家来と織田一門で一番の勢いを誇る信長の乳兄弟の家来。

    もとより守護斯波氏にそんな訴訟を裁くだけの力がないのである。

    結局、火起請(ひぎしょう)でけりを付けようということになった。 


    火起請は先に述べた盟神探湯のようなものである。

    鉄棒等を真っ赤に焼き、手で掴む。

    邪な者は掴めないし、無理に掴めば火傷する。

    もちろん、心正しき者でも火傷するはずなのだが。


    まず、左介から始めることとなった。

    この時は手斧を焼いたらしい。

    だが左介は焼けた手斧を落としてしまう。

    それみたことか! と詰め寄る甚兵衛一党。

    しかし左介を援護する衆もひかない。

    今、我々から見れば「そりゃそうだ。」とも思うが、案外彼らも同じ意見だったのかもしれない。

    左介の主、池田勝三郎もまかりでてきて左介をかばう。 

    ついには弓・槍を手に向かい合う状態となっていしった。


    その時信長は鷹狩りと帰り道。 

    人多く集まり騒いでいるのを何事かと立ち寄った。

    両者互いの主張を聞く。

    火起請の結果にも触れたであろう。

    「手斧を掴みそこねたじゃねぇか。」

    「そんなもん、火傷するに決まってる。」

    そこで信長はもう一度火起請の用意をさせた。

    どれくらい赤く焼いたのか?

    もっと、赤く、そら赤く。

    そうそう、かように赤く焼かねばならぬ。

    よく見ておけ。 

    我れが火起請をためそうぞ。

    火起請はこようにするものぞ。

    ただし、我が火起請を無事こなせたら左介成敗してくれる。 

    信長は灼熱の手斧を掴むと三歩あるき元の棚にもどした。


    これにより、左介は処断された。 

    いいわけ、弁解する者はおるまい。

    そののち、信長の嫡男信忠が武田攻めの際、恵林寺を焼き払う。

    このとき快川紹喜が焼かれ死ぬときに「心頭滅却すれば火も自ら涼し。」と言った

    と伝えられているが、信長も同じ気持ちか。



    でも、やはり熱かったと思う。 






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