織田信長は順風満帆に織田家の家督を継いだ訳ではない。
それは、皆さんもご存じかと思います。
尾張のうつけ者に織田家の命運をかけるなぞ。
と、猛反発する家臣たちがいかに多かったことか。
それが、いつから家臣たちに恐れられる存在になっていったのか。
尾張のうつけが織田家の総帥としての一歩を踏み出したのはこの一戦からかと思います。
織田信長には兄弟や息子が多い。
もちろん、家督を継ぐ地位にいるのは信長である。
信長には兄がいる。
三郎五郎信広である。
だが、彼は家督相続レースからは、はずれている。 (少なくとも周囲の眼は)
家督相続の優先順位には兄弟の序列も重視されるが、その出生が大きな要因をしめる。
母が正室か、側室か。 母方の家柄、勢力等である。
信広は妾腹。 信長はもちろん正室土田御前を母に持つ。。
となれば、家督相続の最右翼は土田御前の三人の男子、
三郎信長、勘十郎信勝(信行)、喜六郎秀孝である。
さて、織田家当主信秀が亡くなり家督を継ぐのは信長である。
美濃の斎藤道三の娘(帰蝶=濃姫)を娶ったことも考えれば、やはり順当であろう。
だが、やはり信長殿では心許ない・・・そう考えた家臣たちは新しい当主を求める。
秀孝は弘治元年(1555)、不慮の死をとげた。 (第 1巻参照)
当然の如く信行が浮かび上がる。
また、母の土田御前も信長を嫌い、信行を偏愛していた節がある。
長くなるので、細かな話は割愛します。
信長を擁護するのは織田勝左衛門、織田造酒丞清正(共に一族か)、
佐久間大学盛重、森左衛門可成、佐々孫介・成政ら。
一方、信勝を支持する一派は林佐渡守通勝(秀貞)、林美作守、柴田勝家の重臣、
また津々木蔵人、橋本十蔵、角田新五(第 1巻参照)ら。
弘治二年(1556)八月、信勝派は蜂起する。
稲生村の(名古屋市西区)はづれで柴田勝家ひきいる兵千、
林美作守ひきいる兵七百が信長に向かう。
対する信長は兵七百。
信長へ向て懸り来る。
まず、信長と柴田勝家が槍をあわす。
多勢の柴田勢が有利に展開する。
佐々孫介・山田治部左衛門も討死。
「究竟の者共うたれ、信長の御前へ迯げかかり、其時上総介殿御手前には、織田勝左衛門、
織田造酒丞、森三左衛門、御鑓持の御中間衆四十ばかりこれあり。」(信長公記)
と あるから、一方的にうち負かされていたのだろう。
信長、またしても絶体絶命の危機。
しかし、信長公記はこのあと、こう続く
「上総介殿大音声を上げ、御怒りなされ候を見申し、さすがに御内の者共に候間、御威光に
恐れ立ちとどまり、終に迯崩れ候キ。」
信長の大音声、怒り声に皆恐れ立ち止まり、遂には逃げ出したのである。
逃げる柴田勢を蹴散らすと一転、林美作勢に襲いかかる。
林美作が信長勢の黒田半平と尅切り合い、黒田半平の左手を切り伏せたところへ
信長があらわれる。
ここぞとばかりに信長は林美作をつき臥せ、頸を討ち取った。
こうして稲生の戦いは、信長が逆転勝利を納めるのである。
信長の大音声で、なぜ柴田勝家らは立ち止まってしまったのか。。
それほどまでに信長の咆吼は恐ろしいものだったのか。
なんと叫んだのか。
勝利を目前にした柴田勝家を恐れさせた御威光とは?
信長の家督相続や織田家の惣領としての争いの中で、信長暗殺を目論だり、
実際に、謀反まで起こした家臣は少なくない。
柴田勝家、佐々成政、織田信広・・・
あるものは滅び、あるものは許され信長の覇道を助けてゆく。
美濃・近江時代にも何度も謀反や反乱を経験するが、この尾張時代、家督と惣領の争いの中
で許され、覇道を助けることをちかった家臣は実に忠実である。
魔王信長として出会ったのではなく、「うつけ」として出会った信長に生死を賭けた戦をいどみ
初めて「うつけ」ではなく真の覇王の姿をかいま見たのであろうか。
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