丹羽の二派・岩崎の丹羽右近/児玉の丹羽長秀 (下)

 
 
 
 
 
児玉・丹羽長秀の系譜 編  
 
 
 さて、次は丹羽長秀の系譜。
 
 先にも述べた様に丹羽長秀の出自は明確にはわからない。
 尾張に丹羽郡があるのだから、そこから発生した土豪で尾張各地に広まった一系統で丹羽右近らと同族…。
 という安易な予想は立てられるが、どうやらそうとも言い切れない。
 
 
 え〜 なんでしょう?  
 『尾張群書系図部集(下)』を元に若干手を加えたのが上図。 
 
 はっきりとしているのは「丹羽忠長」からであろう。  
 丹羽忠長は尾張国春日井郡児玉邑の住人。
 守護斯波義敏に仕う。
 
 春日井郡は現在の名古屋市北部・瀬戸市・小牧市・清須市などを含める広い郡域である。
 現在、「春日井市」が存在するが、それは戦国時代の春日井郡の一部分で丁度、真ん中あたりになるだろうか。
 名古屋市西区にあり、名古屋城から少し西へ移ったあたりが児玉である。
 
 斯波義敏は家督を巡る争いから騒動に発展し、応仁の乱の引金を引いた一人とも言える人物。
 それから尾張において守護代であった織田氏が台頭していく。
 兎にも角にも、当時の丹羽氏は織田の家臣ではなく、守護斯波氏に直接仕える立場であった様だ。
 
 忠長の子、長政も斯波氏に仕う。
 その子に、長忠・長秀・秀重。
 この長秀が織田信長の重臣であった丹羽長秀である。
 
 丹羽という苗字。
 上巻の丹羽右近の頁でも述べたが、春日井郡の北に丹羽郡があり、そこから発して用いられた苗字と推測される。
 
 丹羽長秀の祖は一般的には良岑安世とされる。
 良岑安世は五十代桓武天皇の皇子。
 良岑朝臣の姓を賜って臣籍に下った。
 文書によって、良岑は良峯・良峰とも書かれる。
 
 『群書系図部集』に記載されている良峯氏系図には丹羽長秀に繋がる系図は見られない。  『日本系譜総覧』は良岑安世から丹羽忠長迄の間を飛ばして「この間29代」としている。
 これでは、丹羽長秀の祖が良岑安世なのか示す系図が見当たらないという事となってしまう。
 
 ただ、良岑安世の系譜は尾張の丹羽郡には届いている事は確か。
 
 良岑安世から宗貞、玄理と続き、玄理の項には
 姓を椋橋と改め尾張国丹羽郡の郡司なり当地に住んだことが記されている。
    改姓於椋橋。始住尾張国丹羽郡。為当郡司。
         (『群書系図部集 第六』巻百七十四 良峯氏系図)
 その子、美並。さらに頼利と、郡務にそれぞれ30年、15年と就いた事が記されている。
 
 おなじく『群書系図部集 第六』に
    良少将息良岑玄理配流于尾張国後。未蒙赦免卒畢。以勅者子孫子孫之所領。被成御領被召仕之条。
         (良少将とは良岑宗貞が左近衛少将であった為)
 という文がある。
 配流? …郡司と任官とは異なる意味合いにとれるが、左遷という事なのだろうか?
 古文書読解力の乏しさと、当時の状況の不理解さからか、私には良くわからないのですが…。
 本筋とは異なりますので、今回、深くは追求しません。
 
 頼利の子、季光になると姓を良峯に戻した模様。
 その弟、惟光。その子・孫の代で郡務云々と続きますから惟光の家へ郡司の任が繋がれたのでしょう。
 そして幾枝にも分かれていきますが、系図は15-6代程しか記載されていません。
 やはりこの系図からは丹羽長秀の祖が良岑安世なのか不明のまま。
 ただ傍系の最後に。
    時綱
     尾州。号前野右馬二郎。
 
    時綱子孫世居前野邑。而繁衍衆多。及織田豊臣之崛越。以勇鳴世者。
    所謂前野加賀守。前野又五郎忠勝。前野兵庫等皆其子孫也。
 と、ある事に興味を惹かれた。
 しかし、この前野時綱から始まる前野氏系図にも丹羽氏に繋がるものはない。
 なお、『寛政重修諸家譜 第十一』には良峯氏を発祥とする丹羽氏の家譜も掲載されている。
 旗本丹羽正明を祖とするが、     助太夫
     尾張国丹羽郡に住し、織田右府(信長)に仕ふ。
 と、あるだけで、その繋がりは記されていない。
 
 丹羽長秀の丹羽氏は関東の児玉党から分かれたという説がある。
 児玉党は、平安時代の武士台頭時、武蔵国で割拠したていた武蔵七党と呼ばれる武士団の一集団である。
    (武蔵七党は、横山・猪俣・野与・村山・児玉・丹・西党)
 児玉党の祖ははっきりしない。
 古くは関白藤原道隆の子・伊周の流れを汲む遠峰というものが伝えられていただ、近年はそれを否定しているものが多い。
 正直、私も詳細はわからないので割愛。
 関東で名を轟かせた武士団の棟梁であった児玉氏とだけイメージして進めます。
 
 それが何故、尾張に移ったかというと、その明瞭な証拠も無く…。
 丹羽長秀の屋敷が児玉邑(現・名古屋市西区児玉町)にあったから…というと身も蓋もない。
 但し、この児玉町の名の由来は「児玉党の丹羽氏がこの地に入ったから」という説もある様なので、なんとも言えない。
 
 『尾張郡書系図部集(下)』には、もうひとつ、丹羽氏の祖を紹介している。
    建仁元年(1201)八月、梶原平次景高子息豊丸(梶原平九郎景親)を奉じて、尾州丹羽郡羽黒村へ来往した七人の従士の中に、
    丹羽(弥右衛門)家兼の名が見えている(「山姥物語実記」)
 
 「山姥物語実記」を未だ調べていないので詳細がわかりませんが…、
 梶原景高といえば、鎌倉幕府の有力な御家人で後、追われ討たれた梶原景時の次男である。
 豊丸とあるからには幼少であった為、尾張国丹羽郡に落ち延びたという事か。
 その従士の一人が丹羽郡の地名から児玉と苗字を変えたのか?
 或いは彼が児玉党の児玉氏の一員だったのか?
 たまたま偶然に児玉という児玉の人がいたのか、苗字と同じ地名を気に入って住みだしたのか?
 詳細は不明。
 
 と、まぁ…丹羽長秀の丹羽氏の祖先はこの様な感じです。
 
 はっきりしているのは丹羽長秀の祖父・丹羽忠長から。
 丹羽忠長−長政−長忠と三代に渡って守護斯波氏に仕える。
 忠長は斯波義敏にとあるが、長政、長忠には「斯波氏に」としか記されていない。
 
 丹羽長秀は次男であるが為、斯波氏ではなく陪臣となる織田家に仕えたのか。
 経緯は定かではないが、彼が信長に仕えた事で丹羽家は大きく飛躍する。
 天承元年…木下藤吉郎(豊臣秀吉)が、織田家中の柴田勝家・丹羽長秀にあやかって氏を羽柴に改めた様に、 丹羽長秀は信長の両翼と評されるまでになっていた。
 実際には丹羽長秀の功績には際立ったものが無い。
 だが次から次へと繰り出される信長の命を無難にこなし、また失態も無い。
 軍事面だけでなく、行政面でも、この年中戦の最中にもかかわらす淡々とこなしている様子。
 オールマイティと言うと持ち上げ過ぎの評価だと思うが、奇特な存在である。
 
 与えられた仕事は卒なくこなし、それ以上の事もする。
    (信長は与えられた仕事だけをこなしているだけでは許さぬ様子なので、当然それ以上の事はしているのだと思う)
 自分の実力も弁えていたから、それ以上の無茶や無意味なパフォーマンスも好まなかったのだろう。
 信長の死後も、立ち居地からすれば柴田勝家・羽柴秀吉に拮抗する第三勢力にもなれただろうが、あえてそれをしなかった。
 分を弁える事を肌で感じ取れる人であったのか。
 それはずいぶん簡単な様で実は難しい事である。
 
 桶狭間の戦いを信長とともに戦い天下へ躍り出て、その重臣と呼ばれるまでになった武将達の中で、明治維新を大名として迎えたのは、 この丹羽長秀の家系だけであろう。
 丹羽長秀の死後は長重が継ぐ。
 戦場における不手際を度々咎められ父からの遺料の多い、関が原の戦いの戦後処理で全てを失う。  しかし家康への異心無き事を認められ、改めて常陸国古渡に一万石の領地を経て大名とに復帰。  その後も徐々に功を挙げ陸奥国白川十万七百石の領地を得た。
 その子・光重の代に陸奥国に本松に転封。
 
 
 
 
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
       
  『信長公記』 太田牛一 角川日本古典文庫  
  『群書系図部集 第六』   続群書類従完成会  
  『尾張郡書系図部集(下)』 加藤國光 編 続群書類従完成会  
  『寛政重修諸家譜 第十一』   続群書類従完成会  
  『日本系譜総覧』 日置昌一 編 講談社  
  『日本史諸家系図人名事典』 大和田哲男 監修 講談社  
  『復刻改定補 尾張國誌』   東海地方史学協会  
  『織田信長家臣人名事典』 高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館  
  『愛知の城』 山田柾之 著 マイタウン  
 
 
 
 
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