丹羽の二派・岩崎の丹羽右近/児玉の丹羽長秀 (上)

 
 
 
 
 
岩崎城・丹羽右近の系譜 編  
 
 織田信長の家臣で重要な地位も勤めた丹羽長秀。
 この丹羽という苗字。
 全国的にも多い苗字なのだろうか?
 「日本苗字七千傑」で調べてみると、399位 (約52,200人)。
 比較的上位にあるようだ。
 
 私は生まれも育ちも名古屋であるが、私の周りには丹羽さんが多い。
 近所を歩けば「丹羽」と書かれた表札が目に付くし、子供の頃に丹羽という同級生は複数人いた。
 出身中学校の卒業アルバムを引っ張り出してみた。
 この年の卒業者数は 360人以上いるのだが、丹羽さん・丹羽君を数えてみると9人在籍していた。
    全体の2.5%である。
 全国で最も多いとされる佐藤さんは 0人。
 名古屋で多いとされる加藤さんは 5人。鈴木さんも 5人。伊藤さんは 8人。
 これは…丹羽さんは名古屋地域で「多い苗字」といえるのではだろうか。
 
 
 愛知県には丹羽郡という地域が存在する。
         *右地図(A)参照 
   
 木曽川の南岸…犬山城あたりが丹羽郡である。
 犬山に市制がひかれ、現在の丹羽郡は扶桑町・大口町で構成される。
 
 苗字の多くは地名に端を発する。
 愛知県には丹羽郡が存在する。
 それゆえ、愛知県尾張地区には「丹羽」さんが多いのだろうとは予測される。
 
 『信長公記』に登場する丹羽氏の武将は 
  丹羽氏次(丹羽勘助) … 巻十五
  丹羽氏勝(丹羽右近・源六)… 巻二、三、十、十三
  丹羽小四郎 … 巻九
  丹羽長秀(丹羽五郎左衛門)… (各所・省略)
  丹羽兵蔵 … 首巻
         *( )内は同一人物の異名表記 
   
 これら丹羽氏武将の系譜を辿ってみたいと思う。
 
 
 丹羽長秀の出自は明確にはわからない。
 尾張に丹羽郡があるのだから、そこから発生した土豪で尾張各地に広まった一系統で丹羽右近らと同族…。
 という安易な予想は立てられるが、どうやらそうとも言い切れない。
 
 家系図のはっきりわかる丹羽右近の系統からみていこう。
 
 
 『群書系図部集 第二』記載の「一色丹羽系図」、『尾張群書系図部集(下)』を元に若干手を加えたのが上図。 
 
 丹羽氏は足利氏と同族の一色氏から分かれている名門である。
 足利氏は一時、三河国吉良庄を拠点としていたことから、三河の各地に一族を伸ばした。
 一色氏の祖公深も吉良庄の一色という地名に由来する。
 丹羽右近の一族は氏識・氏勝・氏次等「氏」を通じとしている。
   (足利氏は尊氏以前より義氏・泰氏と一族中「○氏」と付ける者が少なくない。)
 
 一色直行は九州探題をも務めたが、敗退する事が多く一族の要は弟の範光受け継ぐ。
 織田信長の時代の足利幕府御供衆一色藤長や丹後国主一色義道と続いているのは範光の子孫である。
 直行の子孫は氏兼−氏宗と続くが徐々に衰退していったようだ。
 氏宗の弟氏茂がこれを煩い、氏宗の子氏明を伴って、自らの領地である尾張国丹羽郡に移った。
 氏明を主とし自らの家は家老職として代々仕えたという。
   (系図からは割愛したが、氏宗・氏茂の他に満直・長兼・直兼・直信の兄弟がいる。)
 以降、氏範の代まで丹羽郡にいたとある。 (『寛政重修諸家譜 第二』)
 
 
 
 氏明の玄孫・氏従が文明三年(1471)に折戸城を築城。
 折戸城は現在の愛知県日進市。
 名古屋の東側に位置しており、尾張の北端(丹羽郡)から東端へ一気に拠点を移したことになる。
 
 また折戸城築城の資料から氏従の生きた明確な年代がわかる。
 文明三年(1471)といえば応仁の乱の真っ只中である。
                 (応仁の乱=応仁・文明の乱 1467〜1477) 
 
 一色氏は一色義直の代である。
 一色義直の丹後と伊勢の守護であったが、尾張知多郡にも領地を持っていた。
 知多の北部にあるのが日進である。
 義直の弟義遠が知多から三河へ攻め入ったという記録もある様である。
 ならば、折戸城築城はその前線基地という意味合いを持つのだろうか?
 
   (足このあたり…勉強不足で資料を探し出しませんでした。まぁ…宿題です。)
 
 しかし…ならば疑問がひとつ沸いてくる。
 上記系図では、丹羽氏従は一色範氏の8代の末裔である。
 一色義直は一色範氏の5代目となる。
 やや世代にずれが生じている様な気がしてならない。
 
 信長の世代で比較してみよう。
 系図の一色氏は…一色藤長が足利義昭の御供衆として信長と接している。
 当時の丹後守護は一色義道で、一時は信長に従ったが、後に攻められている。
 この一色藤長は一色範氏の8代裔。
 一色義道は一色範氏の7代裔。
 一方『信長公記』に登場する丹羽氏勝は一色範氏の13代裔である。
 
 もちろん、若いときに生まれた子と晩年に生まれた子がそれぞれ続けば、これだけの差は生まれるかもしれない。
 だがやはり、この家系図に懐疑的な目を向けざるを得ない。
 知多からの三河攻めのあたりに元々土豪であった丹羽氏従が箔付けの為に、自分の出自を一色氏の系図に繋げてしまった…
 などという事もあるのかもしれない。
 
 『尾張群書系図部集(下)』では参考として以下の文言を添えている。 
    丹羽郡丹羽村(一宮市西成丹羽)の「鷲津系図」では、丹羽平三郎氏明を丹羽郡司長峰氏裔孫としている。
 
 長峰氏については次の児玉の丹羽氏(丹羽長秀)の項でも触れるので今は割愛。
 
 
 話を戻します。
 
 丹羽氏従の子・氏員が折戸城の北に本郷城を築き移る。
 折戸城は廃城となった。
 
 さらに丹羽氏員の孫・氏清が本郷城の北に岩崎城を築き移る。
 本郷城は廃城となった。
 
 丹羽氏清の子が氏識。
 丹羽氏識の子・氏勝が『信長公記』に登場す丹羽氏勝・丹羽右近である。(同一異名)
 この頃、同族の丹羽氏秀(氏識の父の従兄弟)が宗家たる氏識に背くことがあるので、氏秀の居城・藤島城を攻める。
 氏秀は織田信長を頼る。
 天文20年(1551)、信長は援軍を出すことを決め自らも軍を指揮した。
 この際、先陣は横山城(春日井郡・現瀬戸市)まで出ており、岩崎城の守りを丹羽氏清に任せた氏識・氏勝父子でこの織田先陣を迎え撃った。
 織田軍は大敗し、以降、援軍を出さなかった。
 氏秀は逃亡し三河国広見城(現豊田市)の中條将監を頼った。(以降不明。)
 
 丹羽氏識・氏勝の領地は尾張東端で三河との国境を南北に渡って有している。
 それ故、尾張の織田氏と三河の松平氏双方から引き合いがあった様だ。
 しかし、この一件の為か松平(徳川家康)に靡き三河国内にも領地を得る。
 のち、尾張・三河の和睦が成り同盟関係を結んだ事により信長の麾下に入ることとなった。
 
 丹羽氏勝は永禄十二年(1569)伊勢大河内攻めに従軍、元亀元年野田福島攻めなどにも名が見られる。 
 しかし、天正八年(1580)八月、突如として信長より追放される。 
 『信長公記』には 
    子細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり 
 とあるだけで、実際の詳細はわからない。
 この「子細」では、ほとんど言い掛りである。
 細かな事が積もり積もったこと故なのであろうが、信長が尾張統一以前に二度ほど敵対したと言うこと以外、
 勘気を蒙る様な出来事が言い伝わっていない為、想像の域で推測することしか出来ない。
 追放後は徳川家康に仕える。
 
 丹羽氏勝の子・氏次は信長に追放される事無く留まった。
 信長死後は織田信雄に仕える。
 しかし今度は織田信雄の勘気を蒙り、父と同じく徳川家康に仕えることとなった。
 関が原の戦後、三河国伊保一万石を与えられた。
 
 丹羽氏次の子・氏信は家督相続後、一万石を加増。
 領地も改められ美濃国恵那・土岐両群とし岩村城に移った。
 
 その後、氏定−氏純−氏明−氏音と続き、氏音のとき家中の騒動を咎められ一万石に減封、閉門。
 薫氏−氏栄−氏福−氏昭と代々領地を転々とし、播磨国三草一万石にて廃藩置県を迎える。
 爵位は子爵。
 
 江戸時代における家系図を下に附す。
 
 
 
   
 主
 な
 参
 考
 文
 献
 
 
       
  『信長公記』 太田牛一 角川日本古典文庫  
  『群書系図部集 第二』   続群書類従完成会  
  『尾張郡書系図部集(下)』 加藤國光 編 続群書類従完成会  
  『寛政重修諸家譜 第二』   続群書類従完成会  
  『日本系譜総覧』 日置昌一 編 講談社  
  『日本史諸家系図人名事典』 大和田哲男 監修 講談社  
  『復刻改定補 尾張國誌』   東海地方史学協会  
  『織田信長家臣人名事典』 高木昭作 監修 谷口克広 著 吉川弘文館  
  『愛知の城』 山田柾之 著 マイタウン  
 
 
 
 
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