織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三人の性格を端的に現した句として広く知れ渡っている「鳴かぬなら〜ホトトギス」 実際は三人がそれぞれ自分で詠んだ句ではなく、後世の人が「この人ならこんな性格だろう」と表現して見せた句である事もご存知の事。 ・・・。 と、思ったらそういう訳でも無いらしい。 …と、言って書き出した前稿のホトトギス考。 本当の作者はわからない…とも書きました。 前稿を書いた時は「作者は松浦静山」と明言されたサイトも多くありましたが、このホトトギス考のページが役にたったのか… なんて事でも無いのでしょうが「作者は不詳」「松浦静山というのは誤り」と記されたサイトが多く占めてきた様子。 このサイトもホトトギスの三句の真相究明に少しは役立ったかと、ほくそ笑んでおります。 ならば、本当の作者はわからない…で終わっても良いのか? なんて奮起した次第。 でも…結局、本当の作者がわかった訳ではありません。 はい。わかった訳ではありませんが、もう少し分かった事とが出てきたので記します。 前出、松浦静山の『甲子夜話』は文政4年(1821)から天保12年(1841)に書き起こされましが、 これより古くに書かれた文献にも、同様のホトトギスの句が記されていました。 それは『耳嚢』(根岸鎮衛/著)と呼ばれる文献です。 『耳嚢』は『耳袋』と新漢字に改められ出版もされており、探せば図書館等で読むこともできます。 平凡社発行の東洋文庫『耳袋』(鈴木棠三/編註)にある解題によると…。 ネットは正誤、混在しているからなぁ…それがネックだ。 『耳嚢』には、著者の自筆本は残ってないらしく…(中略)…すべて転写本ばかりである。 それらの伝本は…(中略)…巻数乃至冊数についてひどく不同である。 『耳袋 1』東洋文庫207 (根岸鎮衛/著・鈴木棠三/編註) p.383 解題 つまりは収録されている順から寄稿順が読み取れず、該当項がいつ書かれたものかはわからないということかと。 とりあえず、『耳嚢』は天明から文化年間に書かれた様なので、1781〜1818年の範囲で記されたと思われる。 『甲子夜話』より古い時期であることは間違いない。 では、肝心の『耳嚢』の内容は…。 連歌その心自然に顕わるゝ事 古物語にあるや、また人の作り事や、それは知らざれど、信長、秀吉、恐れながら神君御参会の時、 卯月のころ、いまだ郭公を聞かずとの物語いでけるに、 信長、 鳴かずんば殺してしまえ時鳥 とありしに秀吉、 なかずともなかせて聞こう時鳥 とありしに、 なかぬならなく時聞こう時鳥 とあそばされしは神君の由。 …そのあと神君家康を持ち上げる言葉が少々。 『耳袋 2』東洋文庫208 (根岸鎮衛/著・鈴木棠三/編註) p.198-199 巻の八 『甲子夜話』に記されたとは、若干文言が異なりますが、意味は同じでしょう。 冒頭には、古い文献にあるものか、誰かの創作か分からないともあります。 さらにこのあと、連歌師里村紹巴も登場して話しが続きます。 紹巴もその席にありて、 なかぬなら鳴かぬのもよし郭公 と吟じけるとや …やっぱり「人の作り事や」が正解でしょうや。 さて、もう一つ。 『誹風 柳多留 五十三篇』 文化八未年刊 (1811年)。 三将で思ひ思ひの時鳥 万仁 『誹風柳多留全集 四』三省堂 (岡田甫/校訂・三省堂/発行) p.260 信長・秀吉・家康の名前は出てこないが、正しく三将とはこの三人のことでしょう。 『誹風柳多留』は江戸時代の中期から末期に刊行された川柳の句集です。 信長・秀吉・家康のホトトギスが江戸の民衆でも周知の小噺となっていたとみて良いのではないかと思う文献です。 この『誹風柳多留』、この稿を書くために初めて読んだのですが、武将ネタも沢山載っています。 赤みそでなあと鍾馗ハにらみつけ 有幸 御先祖ハ小六子孫ハ大録 五丁 長篠で武田の仕かけ糸が切れ 和文 安康と書たて鐘も釣し限リ 亦楽 石田詰尻から金吾中納言 柳雨 戦国時代だけでなく、平家物語や三国志まで… 松風の音に仲國駒をとめ 和文 長刀のさんまた関羽持って出る 里梅 博望披水の差圖て火せめ也 鷺舟 江戸時代の民衆も軍記物語が好きだったのでしょうね…。 |