上総介の秘密

 
 織田信長は「上総介」を称していた。

 なぜ「上総介」なのであろうか?

 「上総介」の意味については前編に記した。

 本編はなぜ「上総」なのかに触れてみたいが、 これに関しては全くの憶測である。

  歴史的に権威にある先生方の発言でもなければ、信用のおける文献から引用した物ではない。

 単なる筆者の推論であって、筆者本人もこの推論にたいして何ら責任を持つつもりもない。

 たわごとであると思っていただいて結構である。

 だから、ここで読んだことを学校で話したり、試験に書いたりしないでね。  念のため。


 信長に限らず武将の多くは官職に任官されたり、任官されもしないのに勝手に自称したりしている。

 織田家でも多くの「正式」「自称」の官職が称されている。

 もちろん国司としての官職だけではなく兵庫助や刑部大輔などもあげられるが、ここでは国司官職名に絞ってみよう。

 本宗家ともいうべき(と言ってもこれも2家に分かれているが)守護代家は大和守・伊勢守を代々名乗っている。

 他には因幡守・伊賀守・播磨守・筑前守・出雲守・遠江守・丹波守などがみられるが、これはすべて信長以前 (誕生前の故人や年長者)の例である。

 また信長の父・祖父・曾祖父は弾正忠と称していたことは有名であるが後年はみな備後守を称していた。

 つまり、信長の生家である弾正忠家は代々弾正忠→備後守を称しており、本来は信長もこれを踏襲するのが普通ではなかろうか。

 わざわざ、信長は「上総介」を選んだのだと考えられないか。

 さらに、先に挙げた国司官職名の任官国は遠江守を除いてみな西国である。

 今度は信長以降、つまり信長の兄弟に目を向けてみる。

 庶兄である信広は大隅守でこれも西国。

 すぐ下の弟・信行(信勝)は武蔵守、その下の信包(信兼)は上野介、ひとりあけて秀俊が安房守である。

 いままで現れなかった関東の国名が並ぶ。

 これは偶然なのであろうか。

 秀俊が安房守と称した初見は弘治二年(1556)2月であるから、それ以前に自称していたと思われる。

 秀俊以降の弟で国司官職名を称していたのは信照(中根信照)で越中守を称したが、この頃はまだ元服前であったと考えられる。

 天文十八年(1549)頃から弘治二年(1556)にかけての期間だけ突如として関東圏の国名が登場するのである。

 この時期はいかなる時期か。

 天文十七年(1548)は信長が美濃の斎藤道三の娘帰蝶を娶り、織田斎藤同盟が成った年である。

 逆に弘治二年(1556)は斎藤道三の息子義龍が道三を討ち取り、織田斎藤同盟が崩れた年である。

 いわばこの時期、美濃からの脅威はなくなり、最大の脅威とは三河を併呑した今川氏だったのである。


 私はこう思う。

 信長の目は東に向けられていたのではないか。

 信長が天下布武を掲げたのは美濃を攻略してからである。

 このころは「京」よりも「関東」を睨んでいたのではないだろうか。

 もしかしたら単に今川に対する虚勢なのかもしれない。

 今川を倒す。

 三河、遠江、駿河を飲み込み、相模を突き抜け関東に出る。

 今川なんぞ、その道々の踏み石にすぎぬ。

 俺の目は今川なんぞ見ていない。

 その向こうにある関東を見ているのだ・・・と。

 また織田家はその自出を平氏にあてている。

 関東には坂東平氏が名をあげていた時代があり、その当時も尚、坂東平氏の名に重みを感じられたのかもしれない。

(もっとも、信長が平氏を称したのはもう少し後のことであり、これは考えすぎかもしれないが。)

 織田家の自出とするのは伊勢平氏であるが、伊勢平氏も坂東平氏の末である。

 今川を倒し関東に乗り込むことが出来たら、「儂は平上総介信長なり」と声を上げようとしたのだろうか。

   織田斎藤同盟が崩れ美濃に目を向けざるを得なくなった。

 そうして美濃を手に入れたとき、その目は関東よりもっと大きなもの−−−天下へと向けられたのではなかろうか。

 
      前編(上総介とは)はこちら
 
 
 

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