=本能寺の変についての質問=
以前、メールや掲示板等で質問を受けた本能寺の変に関する問いをまとめて見ました。
@ 本能寺の変の真犯人は誰?
A 本能寺の変で皆殺されたのに、信長の言葉とか誰が伝え残したのか?
B 信長は何故、城郭でもない無防備な寺に寝泊りしたのか?
C 信長は本当に死んだのか?遺体が無いのは何故か?
D 信長の墓がたくさんあるのは何故?
E 明智光秀は農民に殺されたとありますが、どうして農民が光秀の顔を知っていたのか?
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@ 本能寺の変の真犯人は誰?
わかりません。
よく尋ねられる問いですが、自らの真犯人説は持っておりません。
私は「自己の判断の付かない(賛同出来る説に巡り合っていない)場合は旧来の説・定説・一般的な説に従う」
という姿勢を持っておりますので、どうしてもと問われるならば「光秀単独犯行です」と答えています。
黒幕説には、豊臣秀吉説・徳川家康説・足利義昭説・朝廷説・毛利説・長曽我部説・イエスズ会説等々…
たくさんありますが、どれもしっくり来ないのです。
個々の説の見解は長くなるので別の機会があればまた…
黒幕存在説の中には「黒幕」として置きながら「それは黒幕というより、協力者というものではないのか?」
「それは単に唆し犯・教唆犯ではないのか?」と思われるものも多々あります。
黒幕ではなく、唆し犯という括りならば、案外存在するかもしれませんが。
(戯言で言ってみた事や酒の席での雑言を光秀が真に受けてとかなら…)
A 本能寺の変で皆殺されたのに、信長の言葉とか誰が伝え残したのか?
本能寺で信長と共にいた人たちが全部亡くなってしまったと思われている方も少なからずいらっしゃいました。
実際には複数の人々が存命していると思われます。
『信長公記』に残る信長の最後の言葉は「女達は急ぎ脱出せよ」という意味合いの言葉です。
是迄御そばに女共付きそひて居り申候を、
女はくるしからず、急ぎ罷出でよと仰せられ
このあと信長は奥の部屋へ赴き切腹したとあります。
『信長公記』の日記の様にその日の出来事を纏めたのではなく、作者である太田牛一はよく見聞調査し
これをまとめたものと思われます。
この時の「女共」や明智側に付いていた雑兵達の調査もしたとも考えられます。
また本能寺の変で亡くなった全員の名も記されていますが、捕らえたれたもの逃げ延びたものの有無が
記されていない以上、そういった人たちのいた可能性もあります。
実際、黒人奴隷から取立てられた弥助が戦死者の名前にありません。
彼の安否、その後はまったくわかりませんが…(太田牛一に「黒人は人扱いしないから記載しない」等という
差別意識があったのならば、記載しなかっただけという事も考えられますが、実際、そんな意識があったか
どうかは不明)逃げ延びたから戦死者として記載されなかったという可能性もあります。
信長が本能寺に宿泊する際に、本能寺の僧や寺人達は全て退出していたのでしょうか?
そういった事から信長の最後のぎりぎりまでの様子を伝え残した人もいたであろうと思われます。
B 信長は何故、城郭でもない無防備な寺に寝泊りしたのか?
京に長く滞在するのならば何故、堅固な城郭を建ててそこに住まなかったのか?と尋ねられた事があります。
信長は本能寺や本圀寺など、寺院を今日での寝所としていました。
寺院というと戦や防備に不向きとの見方もある様ですが、実際はその反対です。
寺院は周囲に塀を巡らし建物もしっかりしていたので、城郭にも引けをとらない程、強固なものでした。
一向一揆で真宗の寺社が一向宗の拠点となった様に、当時の寺社はかならずしも宗教機能としての存在ではなかった。
京の中の寺社は平安・鎌倉・室町時代を通して騒乱の際の拠点として用いられることもしばしばあった。
本能寺は法華宗の大本山であり、法華宗自体も戦には無縁の存在ではない。
本能寺の変の、ほんの150年前には天文法華の乱で消失している程です。
本能寺が無防備な寺と言える存在では無いことは確か。
実際、当時の寺の周囲には堀が張り巡らされていたという事が近年の調査でわかっています。
C 信長は本当に死んだのか?遺体が無いのは何故か?
本能寺の変に於いて信長の遺体は見つからなかった。
というのが事実で、「遺体が無かった」というのは正確ではありません。
本能寺は焼け落ちています。
(↓ちょっとグロい事、書きます。注意)
当然、屋内での遺体は炭化する程、燃えてしまっているのではないでしょうか。
柱や梁も崩れ落ちますから原型を留めていないかもしれません。
寝ている間に襲われていますから、甲冑等は信長も近習もつけていない事でしょう。
そんな遺体では誰が誰だかわからないと思います。
戦場であれば、甲冑武具の残りからも、遺体が誰のものか判別できますが、そういうものは無かったでしょう。
DNA鑑定の確立する近年までは火災での遺体の判別は骨格や焼け残った金属類の装束品がポイントとなったと聞きます。
DNA鑑定の無い当時では焼死体の判別は難しかったであろうと思われます。
また、本能寺には何人の人が詰めていたのか?
100人程ではなかったか…と推測されていますが、『信長公記』に記載された戦死者は 51人。
逃げ延びた者もあるでしょうが、実際に何人詰めていて、何人死んで、何人生き残ったのか?
正確な数字は伝えられていません。
当時もわからなかったのではないでしょうか。
高橋虎松は御台所口にて…と死に場所がわかっている人もいますが、殆どは名が記載されているだけです。
屋外での遺体は兎も角、屋内で焼けた遺体は、誰が誰だかわからないままの遺体も少なくなかったのでは。
確実な戦死者数と遺体数を合わせて、はじめて、身元不明の遺体は誰のものかと推測できるのですから。
もちろん、遺体を隠したという説がある様に、誰かがどこかへ隠したという可能性も大です。
遺体を埋め、首を持ち出し逃げたという説は存在する様です。(本門寺・信長首塚)
D 信長の墓がたくさんあるのは何故?
基本的に墓というものは、必ずしも亡骸が埋葬されているという訳ではありません。
死者を弔いたいと言う人がいて、墓が立てられるのですから…
今日でも災害や事故で遺体が見つからないまま墓を立てられる場合もあります。
また、第二次大戦等で戦死された英霊は靖国神社に祭られ、墓所には墓代わりの「碑」が立てられますが
あらためて墓として建立される遺族もいらっしゃいます。
つまり、墓の下に遺体・遺骨が埋葬されている訳ではありませんので全国に墓がある訳です。
下記、信長の墓碑などのある寺社の一例。
他にも北陸・九州等、全国数箇所にあります。
総見寺 (愛知県名古屋市中区) --- 織田信雄が建立。
総見院 (愛知県清須市) --- 供養塔。
崇福寺 (岐阜県岐阜市) --- お鍋の方(信長の側室)。
本能寺 (京都市中央区) --- 信長公廟。本能寺の変戦死者の供養塔あり。
大徳寺総見院 (京都市北区) --- 一周忌に秀吉が建立。信長一族の墓が多くある。
阿弥陀寺 (京都市上京区) ----- 密かに信長を火葬した遺骨を埋葬と伝わる。
大雲寺 (京都市東山区) ----- 信長と信忠との合祀の墓。
建勲神社 (京都市北区) ----- 明治期に信長を祭神として。
高野山金剛峯寺 (和歌山県高野町) ----- 明智光秀も含め多くの武将の墓あり。
安土城跡 (滋賀県近江八幡市) --- 織田信長公本廟。
西光寺 (滋賀県近江八幡市)
西山本門寺 (静岡県富士宮市) --- 持ち出した信長の首塚と伝わる。
E 明智光秀は農民に殺されたとありますが、どうして農民が光秀の顔を知っていたのか?
明智光秀の顔を農民が知っているはずが無い。
だから死んだとされる光秀は偽者である…という事を書いた人がいるようです。
もちろん、一般の農民が光秀の顔を知っているはずが無いでしょう。
では何故、殺されたのか?
それは単純に光秀が落ち武者だったからです。
戦で敗れた武将達は戦場を抜けて自分の領地へ戻る訳ですが、その道中は落ち武者狩の危険にさらされます。
戦場となった周囲の農村・農民にとって、戦は田畑を荒らされたり、物品を徴用されたりする事も少なくない為、
迷惑なものでしかありません。
戦場に置き去りにされた馬や武具はもちろん、逃げる途中の武将達が身に着けている武具等も剥ぎ取り奪う対象となりました。
当時は戦が起きると村からも男たちが足軽として徴用されました。
また村同士のトラブルから村同士の戦と発展する事もあったよ様です。
戦場や落ち武者狩で得た武具はそういった際に村人の武具として役立ちました。
明智光秀も村人から見ればそういった落ち武者の一人に過ぎません。
もちろん、光秀が逃亡中につき、発見したら褒美を渡す…くらいのお触れは出ていたでしょう。
とりあえず落ち武者がいたので捕まえよう。抵抗するから殺してしまおう。
よく見れば、大将クラスの身分の高そうな武具を身に着けている。
名のある武将に違いない。光秀でなくとも届ければ褒美がもらえる。
届けてみたら、大当たり。光秀だった…という流れであって、はじめから光秀狙いで襲った訳ではないと思われます。
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