信 長 の 兄 弟 達 




 織田信照  
  おだ のぶてる 
 生没年   ?〜?   信長の弟 
幼名・別名・官職名 幼名=?。 越中守。  生母  中根氏の娘? 
 
 
 
 織田信秀の十男。
 生年没年、詳細共に不明瞭。
 
 天正九年の馬揃の際、御連枝衆として登場。
 弟である、織田源五(長益)、織田又十郎(長利)の後に織田中根として名を連ねている。
 
 遠江国二俣城主中根忠貞の養子となり中根姓を称したという文献あり。(『中根家文書』)
 中根家は母の実家にあたるといわれる。
 
 遠江国この中根家は保元の乱の折、平清盛によって滅せられた平忠正の子忠雄が三河国中根に居住した事に発するという。
 今川氏や松平氏という強豪に挟まれ度々侵略され、織田家に仕えた時代もあったという。
 三方原の戦いで当主中根正秋が戦死した為、徳川家康が乞うて養子として中根家を継ぎ中根忠実と名乗る。
 本多忠勝の妹を娶り、徳川信康の家臣を経て家康の直臣、後、本多忠勝の家臣となる。
 
 
 さて、一方、『張州府志』の尾張国中根村の城についての記載に 
 「中根城三在中根村、土人曰く一則織田越中、一則村上弥右衛門、一則村上承善各居之。
 とある。
  (中根村に中根城は三つ在る。
  土地の人が言うには、一つは織田越中守、一つは村上弥右衛門、一つは村上承善がそれぞれ構えている。)
 
 文献資料では便宜的に中根南城、中根中城、中根北城と仕分けされることがあるが当時、この様な区別があった訳ではないと思う。
 南城が本城で中城と北城が出城・砦の様なものであったとも考えられている。
 本城格の南城の主として織田越中守信照が入る。
 中の城には村上弥右衛門、北の城には村上承善(小善と書かれた文献あり)が構えている…と、読み取れる。
 
 同じく『張州府志』には織田越中の人物像を 
  「土人亦曰、織田越中者天性魯鈍人也、 
   常隠居不出有馬一匹、聲言五十餘匹使奴僕終日刷洗亦失其傳、 
   按織田信秀時熱田商家有一女甚美、信秀奪以為妾生子。 
   名越中甚痴凱隠居、信秀没後水野野州信元娶其妾生三子云、恐是越中此人也。

 と、記している。
 随分な書かれ方であるが、よほど魯鈍な人だったのだろうか。
 
 常に城に籠もり外に出ることがなかった。
 馬をたった一頭しか持っていなかった。
 だが、50頭もいると豪語し下男に命じて、その馬を終日洗い続け、いかにも馬が沢山いる様に見せかけていたという。
 引きこもりで虚言癖があるという事か。
 或いは策略家か。
 
 織田信秀が熱田の商家の娘を奪って妾にし生まれたのが信照という。
 この娘(信照の母)は織田信秀死後、水野信元の側室となり三子をもうけたとある。
 
 『尾張国誌』には沓掛城の歴代城主の中に織田越中守の名が見られる。
 『尾張志』にも沓掛城に住すとあり『織田信雄分限帳』に沓掛を領す中根殿がある。
 
 ここで三人の織田中根が登場してしまった。
 二俣城主中根忠貞の養子となった中根忠実。
 尾張中根城主の織田越中。
 尾張沓掛城主の織田越中守・中根殿。
 
 後者2人は同一人物であると見ても良いかもしれない。
 中根城の記述は織田信秀から信長の時代のものであり、沓掛城の部分は織田信長から信雄の頃のものである。
 また二城とも、同じ愛智郡内でり然程遠い土地ではない。
 当初、中根城にいて、晩年に沓掛へ移ったとも考えられる。
 
 だが、前者と比較すると実に慌しい。
 三方原の戦い以降ニ中根家に入り徳川信康の家臣であった事からすると、天正元年から七年頃は徳川家に仕え、天正九年あたりは織田家に。
 本能寺の変後から天正十二年あたりは織田信雄に仕え、それ以降は徳川家康を経て天正十八年本多忠勝に仕えたこととなる。
 
 或いは、二俣城の中根忠実と尾張の織田越中守は別人で混同されてしまっているのだろうか? 
 よくわからない。
 
 二俣城の中根忠実は妻が本多忠勝の妹という縁があり、本多忠勝が大多喜を領した際に本多忠勝の家臣となったが徳川家康からも禄を貰う直臣格でもあった。
 関が原の戦では大多喜城の留守を守る。
 慶長十五年(1610)没した。
 子に忠晴と忠古があり、忠晴が家督を継いだ。
 忠晴は父の遺領のうち、徳川家康から得ていた千石を返上し純粋に本多家臣となり家老職をつとめる。
 以降、本多家の重臣として続く。
 
 一方、尾張の織田越中守・織田中根の文献は少ない。
 ともかく本能寺の変後は織田信雄に従い沓掛に二千貫の領地を得ていた。
 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦に於いて奥城を守るが陥落、秀吉の捕虜となった。
 文禄三年(1594)7月7日に熱田神宮に長刀を寄進したとある。
 その後が解らない。
 
 二俣城の中根忠実とでは晩年がかけ離れており、やはり同一人物とは考えにくい気もする。
 『織田信長総合事典』では二俣城主の養子となった事は「全くの訛伝である」としている。
 
 
 
 参考文献  
 『信長公記』          (角川日本古典文庫版) 
 『尾張志』            
 『中根家文書』         (中根家文書編集委員会編集) 
 『尾張国誌』          (太田亮著:東海地方史学協会復刻) 
 『織田信長事典』        (岡本良一他編:新人物往来社刊) 
 『織田信長総合事典』      (岡田正人編著:雄山閣刊) 
 『考証織田信長事典』      (西ヶ谷恭弘著:東京堂出版) 
 『織田信長家臣人名辞典』    (谷口克広著:吉川弘文館刊) 
 『織田一族のすべて』      (新人物往来社刊) 
 『愛知の城』          (山田柾之著:マイタウン刊) 
 



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