おだ のぶとき |
生没年 | ?〜1556 | 信長の弟 |
幼名・別名・官職名 | 幼名=?。 喜蔵、秀俊?。 安房守。 | 生母 | (信広の母と同一か?) |
織田信秀の六男。 『信長公記』に 「織田三郎五郎殿と申すは、信長公の御腹かはりの御舎兄なり。 其弟に安房守殿と申候て、利口なる人あり。」 と記載されている。 織田三郎五郎とは信広のこと。 わざわざ安房守(=信時)を紹介するのに信広を持ち出した上で、あらためて「其の弟」と述べているので 信広と信時は同腹の兄弟であることを示している。 と、言われている。 また、一説には信広−安房守−信長という兄弟の順を指しているとも言う。 叔父の一人、織田与二郎信康の養子となる。 弘治元年(1555)守山城から逐電した叔父織田孫十郎信次のあと守山城主となる。 信次の家臣が信長・信時らの弟の一人秀孝を誤殺してしまった為、報復を恐れた信次は全てを投げだし 逃亡してしまい守山城は城主を失ってしまったのである。 参照(信長記外伝第1巻) 守山城に立て籠もる信次の家老角田新五、坂井喜左衛門らとの和解が成立したのだろう。 佐久間信盛が信長へ信時を守山へ入城させることを薦め、信長もこれを取り入れた。 翌年。 信時は角田新五によって殺されてしまう。 信時が坂井喜左衛門の息子孫平次を溺愛し新五を蔑如したため、家老職の失墜を恐れた新五が土塀の普請に かこつけて手勢を率い信時に自刃を迫ったのである。 新五は岩崎城の丹羽氏勝も味方に引き入れ立て籠もるが、その後どのような経過をたどったかはよくわからない。 信時のあとには信長の命により信次が再び守山城主に返り咲いた。 この信時殺害は裏で信長が手を引いていたとする説もある。 系譜に「為信長滅亡」と記載されたものがある。 信勝へ通じていたことが信長にばれてしまった為の自殺とある。 だとすれば『信長公記』との記載がずれる。 その詳細は解らない。 ただ一つ気に掛かることは、この時既に信勝派は信長打倒を考えはじめていたようだ。 信時を新城主にと進言した信盛はこの時は未だ信勝派であったはずだ。 新五も信勝派蜂起の際、これに汲みしている。 だとすれば信勝派−新吾−信時は繋がっていたとは充分にうなずける。 それに気づいた信長が信勝派を抑えるために仲違いさせることを画策した。 仲違いは成功たが、それ以上の効果を発揮し信時殺害(自殺?)という事件にまで発展してしまった。 と言うことは想像できるが、これも確たる証拠があるわけでもない。 弘治二年(1556)に織田安房守秀俊という人物が見えるが、同一人物か。 娘あり村井吉兵衛、後下間安甫に嫁す。 |