おだ ひでのぶ |
生没年 | 1580〜1605 | 信長の嫡孫/信忠の嫡男 |
幼名・別名・官職 | 幼名=三法師。従三位権中納言。 | 生母 | (塩河伯耆守長満の娘?) |
本能寺の変に際し前田玄以に守られ清洲城に移された。 清洲会議にて織田家の後継者。 織田信雄と信孝が後見人となり岐阜城にとどまるが信雄・信孝の争いにより再建された安土城に移された。 元服して秀信を名乗り名実ともに織田家の後継者となるが、この頃は既に秀吉の天下。 文禄元年(1592)13万3千石を領して岐阜城主となる。 織田家は覇王の家門ではなく秀吉麾下の一大名にすぎなかった。 関ヶ原の戦いでは西軍に与し岐阜城に籠城するが陥落。 このとき福島正則に諭され自刃をあきらめたという。 剃髪し高野山に幽居、26歳で没した。 秀信の父・信忠の正室として迎えられるはずであった武田信玄の娘・松姫は信忠に嫁ぐこともなく、 織田・武田の友好関係は崩壊した。 信忠は松姫とは別に塩河伯耆守長満の娘を娶っている。 塩河家の格(摂津多田の豪族で信長の家臣荒木村重麾下に加わる)からみて側室として娶ったのでは ないかと思う。 他に側室がいたことは伝わっていないから、この塩河長満の娘が秀信の生母ではないかと思われる。 余談ではあるが塩河伯耆守長満について『尾張國誌』愛知郡の項に 「塩川秀満の孫伯耆守国満、信長に仕ふ。(中略)巾下村の人也。」 と記載されている。 一般に長満を国満と誤伝されていることが多いのだが、この国満と長満は同一人物か、それとも誤りか。 巾下村は現・名古屋市の一部である。 また秀信自身の正室は豊臣秀勝の娘と伝わる。 関ヶ原の戦いで西軍に与したのはなぜだろうか。 自分を織田家の後継者に指名してくれた秀吉への恩義か。 または豊臣家の没落を予想し次に天下を狙う家康を叩いておけば、再び織田家が武門の雄となる道が開けると考えたのか。 もっとも東軍に荷担したとて家康のこと。 いまさら織田家が勢力を伸ばすことをゆるすはずもなく、体よく粛正されただけのことであろうが。 |