羽柴秀勝 | はしば ひでかつ |
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生没年 | 1568〜1585 | 信長の四男 |
幼名・別名・官職 | 幼名=於次。右少将、権中納言。 | 生母 |
羽柴秀吉の養子となる。 天正十年(1582)備前児嶋に初陣。 本能寺の変では秀吉と共に山崎の戦いに加わった。 京都大徳寺での信長の葬儀では位牌を持って参列。 兄信雄・信孝のような継承争いには加わらなかったものの遺児の一人であることをアピールしたのだろうか。 もしくは秀吉の政略か。 丹波亀山城主となり賤ヶ岳の戦い、小牧長久手の戦いにも参戦。 官位をもじって丹波少将、丹波中納言と呼ばれた。 天正十三年(1585)、亀山で没する。 利用価値が無くなり、かつ邪魔になってきたので秀吉が謀殺したとの説もあるが定かではない。 彼の遺領は秀吉の甥が別に秀吉のあらたな養子となり受け継いだ。 羽柴秀勝である。 そう。 羽柴秀勝は二人いる。 織田信長の子と三好吉房の子である。 秀勝を亡くした後、あらたにもうけた養子にも同じ名を名乗らせたのだから、 秀吉もこの秀勝を本当に可愛いがっていたのかもしれない。 |