おだ(かんべ) のぶたか |
生没年 | 1557〜1583 | 信長の三男 |
幼名・別名・官職 | 幼名=三七。 | 生母 | 坂氏の娘 |
信長二男。 母は坂氏の娘と伝わるが、どの様な女性であったか、史料はほとんど残されていない。 北伊勢の神戸具盛の養子となり神戸を称したが、本能寺の変後、織田に復姓。 信長死後の家督権・支配権を争い破れる。 そもそも信孝は信雄の弟と言われているが、実際は信孝の方が二十日ほど出生が早い。 母方の自出も問われる時代のことであるから嫡男信忠と同腹の信雄が兄となったらしい。 もちろん、信雄が信忠と同腹といっても分家一門の身であることにはかわりない。 実際、この信雄と信孝はいつも同じ道を歩んできている。 神戸具盛の娘を娶り為、養子に入ったのは永禄二年(1568)。 この翌年に信雄は同じく伊勢の北畠氏の養子となる。 (北畠氏は国司の家であり、家格という意味では信雄の方が上位) 伊勢長島や播磨を転戦するが、赴く先はいつも信雄と並んでいたようだ。 よきライバルであったのか、二人を競い合わせようとした信長の策か。 『信長公記』 の記述も、この二人はだいたい対になっている。 唯一大きな違いが出てくるのは信雄が伊賀攻めで失態をおかし信長から強く叱責されたことである。 信孝はこれをどう見ていたのだろうか。 信雄は信包と組んだ第二次の伊賀攻めで名誉を挽回する。 次は自分の番、と四国平定を命ぜられその準備中に本能寺の変が起きるのである。 この変に際し、同じく四国平定のために参陣していた津田信澄に嫌疑をかけ殺害してしまう。 (津田信澄=織田信勝の子・明智光秀の女婿) 明智攻めにも参陣するが後手後手に回り主導権は羽柴秀吉に。 清洲会議では柴田勝家の後押しもあり、兄信雄と後継を争う。 だが秀吉の一計にて家督は信忠の嫡子三法師へ。 信孝は信雄とともに後継人となり、美濃が与えられ岐阜城を居城とする。 賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗れると信孝も岐阜城を開城。 尾張国知多半島に移りここで自刃した。 結果的に信雄・信孝の継承権争いが織田家の弱体を早めた。 |