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荒子城は前田利家の出生地として知られている。 折角ですからちょっと注目してみましょう。 荒子城は、天文十三年(1544)、前田利家の父・利昌によって築城された。 (「臨時増刊歴史と旅『日本城郭総覧』秋田書店。『史跡散策 愛知の城』マイタウン) 利昌の死後、長兄・利久が家督を継ぎ城主となるが、後、織田信長の命で利家に譲り渡すこととなる。 さて、もう、お気づきの方もいらっしゃると思いますが、前田利家の誕生年は天文七年(1538)。 天文十三年に建てられた荒子城で生を受けることは出来ない道理である。 と、すると? 荒子城の築城前から前田利昌がこの地に館を築いていたのだろうか? 荒子城の西2km程のあたりに前田という地があり、前田城が築かれていたという。 実は前田氏の発祥には二説あり、ひとつが美濃国安八郡前田村説、もう一方がこの尾張国海東郡前田村説です。 多くはこの海東郡前田村説(現名古屋市中川区)を採用している様ですが。 この前田の地に前田城がありました。 近くに速念寺という寺があり前田利家はこの地で生まれたと伝えられているとの事です。 例え前田氏の発祥が美濃国であったとしても尾張に移住してきた場所が海東郡前田村であったとしてもなんら不思議ではない。 前田利家の何代か前の人物がこの地に前田城を建て、利家はそこで生まれた。 そして父・利昌が荒子城を建て、そちらへ移った・・・と見るべきでしょうか。 荒子城跡には「前田利家卿誕生之遺址」と石碑が建てられていますが、実際は前田城であったかもしれない。 『信長公記』に次のような記載があります。 翌日御出陣候はんの処、一長の林新五郎其弟美作守兄弟不足を申立 林与力あらこの前田与十郎城へ罷退候。 天文二十三年(1554)、出陣を一長林新五郎其弟美作守兄弟、つまり宿老の林秀貞(通勝)とその弟が不満を持ち、 与力でもある荒子の前田与十郎の城へ引いてしまった・・・という事である。 林兄弟はもともと信長を隠居させる事を企む程であったのだから不満を持っている事も、 与力の(信長の直臣でも林秀貞の管理下に置かれている)前田与十郎の城へ引いてしまう事も容易に理解できる。 では「あらこの前田与十郎」とは? 前田与十郎は前田種利の事と思われる。 前田家は2つの系統がある。 前田利家の父利昌・祖父家春(利隆)と続いてきた前田蔵人系統と仲利-種利-種定とつづく前田与十郎系統である。 この2つの前田家は同じ祖を持つ同族なのか異なるのか? 同族であればどりらが本家にああるのか? はっきりとした事は定かではないが与十郎が本家で蔵人が別れたと見ることも多い。 家春(利隆)は種利の弟とした系図もあります。 異なった様々な名前が用いられていたり入り組んでいたりしていあますので、厳密な関係が良くわかりません。 「とりあえず」という気持ちで系図をご参照下さい。 利家の蔵人系が与十郎系分家であったと仮定してみましょう。 完全に独立して信長の直臣となったのではなく、あくまでも直臣前田与十郎の従属して置かれていた。 故に前田利昌が築いた荒子城も前田与十郎の支配下にあり出入りは自由であった。 荒子城の主である前田利昌は林兄弟与力前田与十郎の下にあり林兄弟の反信長体制のなかに組み入れられていた。 それで林兄弟は荒子へ入ったのであろうか? 主命拒否であるから場合によっては信長に攻められる可能性も無い訳ではない。 林兄弟は荒子城が反信長体制のなかあると自信がなければ入れないであろう。 逆に利家の方が蔵人系が与十郎系の本家筋であったと場合。 天文二十三年は利家の祖父家春(利隆)も存命であるが、かなりの高齢となろう。 利昌の意思がそのまま荒子城の意思となる。 利家・良之と二人の子を信長の側に置く利昌となれば明確に反信長体制を決めかねるであろう。 となれば林兄弟は安心して荒子城に入れたであろうか? 利家の蔵人系が与十郎系分家であったのではないだろうか。 弘治二年(1556)、反信長派は蜂起し敗れた。 それによって与十郎系の力が弱まり蔵人系の方が強くなた。 やがて利家が信長の家臣として地位を築き上げていくうちに、対等、またはそれ以上の関係になったのかもしれない。 |