信長データベース ・ 信長の正室・側室の一覧  
 
 
正室/側室  通称  実父 
本名・別名( )=出典 実子
法名・戒名( )=出典 没年 
備考( )=出典  
 
  側室下の ( ) は側室として確認される期間。 「〜本」は本能寺の変の時まで側室であることが判明しているもの。
  通称不明の場合は戒名や( )書きで子の母などと記す。
  オレンジ色文字は、諸説あり・不明瞭なもの。  
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正室 
 
斉藤氏・濃姫 
 
実父:斉藤道三 
 
帰蝶 (『美濃国諸旧記』)
安土殿(『織田信雄分限帳』)
 
子 なし 
 
 
養華院殿要津妙玄大姉
  (『泰巌相公縁会名簿』) 
慶長十七年(1612)
(濃姫=養華院殿要津妙玄大姉として) 
 信長の正室ではあるが『信長公記』にその名は無く、後半生の逸話が極めて少ない為、早くから死別、或いは離縁されたとの説が立つ。
 だが、当時の文書・軍記等で正室の動向が詳細に描かれているものは少なく、文献がないから亡くなったと判断するのは早計な気がする。
 本能寺の変後、信長の次男信雄の所領配分を記した『織田信雄分限帳』に「あつち殿」の名が見える。  總見寺所蔵の『泰巌相公縁会名簿』に安土殿の戒名と思われる養華院殿要津妙玄大姉が記され「信長公御台」とある。  別の史料で養華院殿要津妙玄大姉を「信長公御寵妾也」とあるそうだが出典は不明。
 個人的には信長が居城を安土に移した後、安土殿と呼ばれるようになったのでは…と考えている。
 
側室 (正室説もあり)
 (1555年頃〜1566)
生駒氏・吉乃
 
実父:生駒家宗
 
吉乃 (『武功夜話』)
 
信忠信雄五徳
 
久庵桂昌
 
永禄九年(1566)
 生駒氏が信忠・信雄・五徳の生母である事は間違いないだろうが、その出典である『武功夜話』に偽書疑惑があり吉乃という名とその逸話は偽りであるという声も多い。
 『武功夜話』は懐疑的な面も多いが、当サイトでは真偽論は保留。
 はじめ土田弥兵次に嫁いだが、弥兵次は戦死し未亡人となる。実家の生駒家に戻っていたところ、信長がみそめ、側室になったという。
 嫡男である信忠をはじめ信雄、五徳と続いて三子を産むことから信長の寵愛の程が伺える。
 この事から、濃姫が死去・離縁し、吉乃が正室の座に就いたという説が出てくるが、「濃姫=安土殿」という事が史実であればそれは成り立ちにくい。
 永禄九年(1566)没。
 
正室?側室? 
 (  〜本)
安土殿 (『織田信雄分限帳』)
 
 (父:濃姫ならば
  斉藤道三)
 
 
濃姫と同一説や・
お鍋の方と同一説等あり

 
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養華院殿要津妙玄大姉
  (墓碑銘・『泰巌相公縁会名簿』) 
慶長十七年(1612) 
 
 正側室をあらわす場合、住まいや場所を用いて表す場合が多い。
 安土は信長の居城の地であり、正室であることが相応しい様に感じる。
 濃姫は存命で安土殿と呼ばれる様になったと見るのが自然かと思う。
 もっとも明確な確証はなく、他の側室の誰かを指すという意見も少なくはない。
 總見寺所蔵の『泰巌相公縁会名簿』に安土殿の戒名と思われる養華院殿要津妙玄大姉が記され、はっきりと「信長公御台」とある。
 ただし別の史料で養華院殿要津妙玄大姉を「信長公御寵妾也」とあるそうだが出典は不明。
   *出典(『歴史読本』2003年5月号収録「信長の女性関係をめぐる5つの謎」小和田哲男著)  
 
側室 
 (1554年頃)
原田氏 
 
原田(塙)直政の父 
 
直子 
 
信正
見性軒 
 
正保四年(1647)
 信長の家臣、赤母衣衆の一人、原田(塙)直政の妹。
 天文二十三年(1554)、信長庶長子となる信正を産んだという。
  出典(『系図纂要』『好古類纂』)  だが、一般的に信正を信長の子と表記している文献や系図も少なく、疑問視されている感がある。
 直子という実名の出典も不詳。
 原田直政は天正三年に賜姓をうけ原田となった。元は塙氏であり生家が塙なのだから「原田氏」ではなく「塙(ばん)氏」と呼んだ方が正しいのでは?と思うのだが、多くの文献で「原田氏」となってるので、それに従った。  
 
側室 
 (1558年頃〜本)
坂氏 
 
父 ? 
 
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信孝 
 
天正十一年(1583)
 信長の三男信孝を生む。(兄弟序順は信正を入れず。以降同様)
 次男信雄より二十日早く生まれたが、家の身分が低い為、信雄の弟となったとも単に遅れた為とも伝わる。
 いずれにせよ、坂氏の実家は不明。
 『織田信長家臣人名事典』(岡田正人編・雄山閣刊)にも坂氏の武将の記載はない。
 足軽クラスの武士か農民町民か?
 本能寺の変後の羽柴秀吉との対立で信孝は敗れ、坂氏も磔にされたという。
    (『織田信長総合辞典』より『北畠物語』記載と)  
 
側室 
 (1558or1561年頃)
(冬姫生母) 
 
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 生家・詳細不明。
 冬姫は蒲生氏郷の室となる。
 織田秀勝の墓所と冬姫の墓所が同じ知恩院瑞林寺であることから二人が同母…
 つまり下段記載の養観院と同一人物とする説もある。
 
 
側室 
 (1569年頃〜本)
養観院 
 
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秀勝 
 
養観院 
 
 生家・詳細不明。
 本能寺の変後、秀勝が丹波亀山城主となると共に亀山に移る。
 秀勝死後は京都へ移ったと思われる。
 
 
側室 
 (1571年頃)
(勝長生母)
 
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 ? 
 
勝長  
 
 
 
 生家・詳細不明。
 五男勝長を産むことから六男信秀の生年1571年以前には側室となっていたと思われる。
 
 
 
側室 
 (1571年頃)
(信秀生母)
 
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信秀 
 
 
 
 
 生家・詳細不明。
 『フロイス日本史』天正十五年(1587)に信秀が十七歳頃の若者として登場するので、1571年頃には側室になっていたと推察。
 
 
 
側室 
 (1573年頃〜本)
高畠氏 
 
高畠源兵衛尉
 
鍋 
 
信高信吉・振 
 
興雲院殿月隣宗心大姉
 
慶長十七年(1612) 
 
 六角承禎家臣近江愛智郡高野城主小倉右京亮に嫁ぎ甚五郎・松寿を産む。
 小倉右京亮が信長に誼を通じたため切腹、鍋は信長を頼った。
 信長死後は近江の高畠屋敷に移り、後、秀吉から知行を賜る。
 秀吉の正室北政所の侍女になったという。
 高畠氏は高畑氏と記される文献もあり。
 
 
側室 
 (1574年頃〜本)
(永生母)  ? 
 ? 
 
 
 
春誉妙澄大姉 元和四年(1618)
 生家・詳細不明。
 永を産む。
 天正九年、永は前田利長の室となる。
 本能寺の変の折、前田利長と永は上洛途上の近江で変を知り、利長は安土へ、永は旧領尾張荒子向かった。
 この時、永の母は利長を頼って前田領へ避難したか、変が落ち着いたあと前田領へ送られたか…。
 
 
側室 
 (1574年頃)
(丹羽長重室生母) 
 
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(丹羽長重室) 
 
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 生家・詳細不明。
 丹羽長重の室となる娘を産む。
 この輿入れは本能寺の変後に行われたものであるが、信長生前からの決め事であったようだ。
 
 
 
側室 
 ( ? )
慈徳院 
 
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三の丸殿 
 
慈徳院   ? 
 
 滝川一益の親族で妙法寺の九天宗瑞の妹(出典=『織田信長総合辞典』)。
 もともと信長の嫡男信忠の乳母であった。
 娘は豊臣秀吉の側室となり三の丸殿と呼ばれた。三の丸殿は秀吉死後、摂関家の二条昭実に嫁ぐ。
 
 
側室 
 ( ? )
(信貞生母) 
 
土方雄久説(『寛政重修諸家譜』)
青山 某説(『織田家雑録』)
 ? 
 
信貞 
 
 ? 
 
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 生家の記述が二つの文献で異なり詳細不明。
 この人物に二つの生まれが伝わってしまったのか?
 或いは土方雄久の娘と青山某の娘が共に信長の側室で、そのどちらかの子が信貞という事なのか?
 
 
側室 
 ( ? )
(信好生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
信好 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 信好を産むが、信好自身の史料が殆どない。
 信好だけの生母か、他の生母と同一人物かも不明。
 
 
側室 
 ( ? )
(信次生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
信次 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 信次を産むが、信次自身の史料も少ない。
 信次だけの生母か、他の生母と同一人物かも不明。
 
 
側室 
 ( ? )
(秀子生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
秀子 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 秀子を産むが、秀子だけの生母か、他の生母と同一人物かも不明。
 秀子は筒井定次の室となる。
 
 
側室 
 ( ? )
(鶴生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
鶴 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 鶴を産むが、鶴だけの生母か、他の生母と同一人物かも不明。
 鶴は中川秀久の室となるが若くして亡くなった。
 
 
側室 
 ( ? )
(萬里小路充房室の生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
(萬里小路充房室)
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 萬里小路充房の室となる娘を産む。
 詳細不明、他の生母と同一人物かも不明。
 
 
側室 
 ( ? )
(徳大寺実久室の生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
(徳大寺実久室)
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 徳大寺実久の室となる娘を産む。
 詳細不明、他の生母と同一人物かも不明。
 
 
側室 
 (1581年頃)
三条西氏 
 
三条西実枝 
 
あこゝ   
 ? 
 
 ? 
 
 公家三条西実枝の娘と思われる。
 『御湯殿の上の日記』に「」。
   三条所のあこゝといふもの のふなかにてこかれたるよしさたあり 
 との記載がある。
 
 
側室 
 ( ? )
 ? 
 
稲葉貞通
 
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
 
 詳細不詳。
 
 
側室 
 ( ? )
(虎福生母) 
 
 ? 
 
 ? 
 
虎福 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 虎福を産む。
 信長死後、天正十九年に豊臣秀吉の仲立ちで先将軍足利義昭へ虎福が輿入れした。
 虎福について『多聞院日記』に  「信長ヒサウノ虎福女也ト」  と記されている。
 「信長秘蔵の虎福という娘」という事で、信長の娘に違いないだろうと思われるが 
 娘ではなく「信長秘蔵の愛妾」と捉える説もある。
 ならば生母ではなく、虎福本人が側室であったという事になるが…詳細不明。
 
側室 
 ( ? )
(慈眼院華渓宗春大姉生母)
 
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
 生家・詳細不明。
 娘を産む。
 娘は信長生前、北条氏直と許嫁の関係にあったという。
 この許嫁が信長の実子であるのか養女であるのか伝わっていない。
 実子であるならば、生母が側室となっているであろうが、それも不明。
 
 
側室 
 ( ? )
 ? 
 
 ? 
 
 ? 
 
女 
 ? 
 
 ? 
 
 一女を産んだが身分が賤しかった為、母子ともども岡部又右衛門尉吉方に下げ渡したという。
 『尾州雑志』
 詳細不明。
 
 
 
 
 
  参考文献: 『群書類聚系図部集』第四   続群書類聚完成会 刊
    『続群書類従 第二十五輯上』収録「織田信雄分限帳」   続群書類聚完成会 刊
    『美濃国諸旧記』 黒川眞道 編 国史研究会 刊
    『織田信長総合事典』 岡田正人編 著  雄山閣 刊
    『織田信長事典』収録「妻妾」 小和田美智子 著 新人物往来社 刊
    『考証織田信長事典』 西ヶ谷恭弘 著  東京堂出版 刊


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