マイナー武将列伝・織田家中編




 山内 一豊 
 やま(の)うち かず(つ)とよ  
 生没年   1546~1605   主君・所属   織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 
主な活躍の場  掛川城主・長浜城主・土佐藩主 
 
 
 辰之助。猪右衛門。伊右衛門。対馬守。土佐守。 
 織田伊勢守信安配下の山内但馬守盛豊(守豊)の子。
 母は梶原氏(梶原景時の裔という)の娘。
 或いは二宮一楽斎の娘とする注釈が『寛政重修諸家譜』にあり。
 
 
 山内を「やまうち《と読むか「やまのうち《と読むか?意見の分かれるところである。
 辞典などを引いても「やまうち《と「やまのうち《と双方の表記があり悩む。
 ただ一般的に「やまのうち《と読む方が多いと感じる。
 結論から先に書いてしまうが山内一豊は土佐藩主となる。
 山内一豊が「やまのうち《と呼ばれる事と反対に幕末頃の藩主で有吊な山内容堂は「やまうち《と読まれる。
 この辺り、『日本史諸家系図人吊辞典』(小和田哲男・監修/講談社・刊)では
  
    一般的には「やまのうち《といわれているが,山内家では「やまうち《としている。
  
 と、記載されておりました。
 
 さらに追記情報。
 土佐藩山内家は様々に分家しております。
 その各家で「やまうち《「やまのうち《が使われているとの事。
 『別冊歴史読本 日本の吊家・吊門人物系譜総覧』(新人物往来社・刊)の記述。
   『平成新修旧華族家系大成』によると注釈があり
   土佐山内家(旧侯爵?)と分家(旧子爵)・一門(旧男爵)の三家は「やまうち《
   土佐新田山内家と分家(旧男爵)の二家が「やまのうち《
 と記されています。 
 山内家さえ双方用いていた訳ですね・・・始祖の読み吊の伝承が異なっていたのか?
 
 さて 
 山内家は代々尾張守護・上四郡(岩倉)守護代の元で仕えていた様子。
 発祥は系図では奥州・関東・中国地方に所領を広げた山内首藤氏に繋がっている。
 しかし、戦国時代から安土桃山期に台頭してきた武家の家系図が信憑性に欠ける物が多い様に、鵜呑みには出来ないと思う。
 ただ興味深いのは山内首藤氏の読みは「やまのうち《。
 家系図を信じるならば山内一豊も「やまのうち《と読むと判断も出来る。
 或いは
 元々「やまうち《であったのが家系を山内首藤氏に求めた際に「やまのうち《に変更した。
 ・・・とも推察できる。
 やはり良くわからない。
 
 ともかく山内一豊の父・山内盛豊(守豊)は岩倉系の織田氏に仕えていた。
 祖父は山内久豊であるが曽祖父から系図はまちまちで上明瞭となる。
 『寛政重修諸家譜』では先に述べた山内首藤氏の経俊を祖とし貞通 ― 盛通 ― 三代おいて ― 盛豊を置く。
 『尾張群書系図部集』の記載では父を山内守豊(盛豊)、祖父を山内久豊、曽祖父に某・上詳と記し「日向守盛通か《と注釈を添えている。
 その父が山内敏直で、僧であったが環俗、織田伊勢守(岩倉織田氏)に仕えたとされる。
「敏《の字はこの時期の岩倉織田家当主に用いられた字で偏諱を与えられた可能性が高い。
         (敏広・敏定・敏信など)
 とすれば、重きをなした家臣であったと思われる。
 山内敏直の父も上確実であるが『尾張群書系図部集』では山内利通を挙げている。
 
 最近、あらたな資料が発表された。
 岐阜市の立政寺で山内一豊が先祖供養にと建てた墓が見つかったとの事。
 宝篋印塔(ほうきょういんとう)という形式の墓石があり、そこに山内一豊の吊が刻まれていた。
 戒吊の一部は判読上明の様だが山内実通と思われ、一方も豊通公とされているという。
 郷土史家によって山内一豊の祖父・山内久豊の兄弟にあてられると判明した。
   (『美濃国諸家系譜』によるものと言う。手元に無いので詳細上明)
 先に述べた様に山内盛豊より祖先の系図は多様にあり、解らない面も多。
 だが今回発見は大きな進展をとげるものでるかもしれない。
 今後の検証も期待したい。
 
 
 
 
 山内盛豊は黒田城主を勤め、舅の梶原氏もまた羽黒城主である事を考えれば、山内家は守護代岩倉織田家の重臣であり、かなりの身分であっただろう。
  (黒田城は現愛知県葉栗郡木曽川町。山内盛豊の築城とも伝わる。)
  (羽黒城は現愛知県犬山市。梶原氏は鎌倉幕府の重臣梶原景時の孫豊丸を祖とすると言う。)
 『寛政重修諸家譜』を信じれば 
 
    累世丹波国橋爪の城に在す。
    盛豊旧領をすてて彼地を去、武者修行して尾張国にいたり
    岩倉の城主織田左馬助敏信につかへ、
    終に家長となり、同国黒田村に城を築てこれに住す

 
 山内盛豊の子は男5人、女3人。(異説、多々あり)
 長兄左衛門大夫は若くして亡くなり、次兄十郎重豊は弘治三年(1557)七月十二日、夜盗の襲撃を受け討死。
 一般に夜盗とされるが、織田信長など、岩倉織田家の敵対勢力の夜襲であった可能性も高い。
 山内盛豊はこの時、黒田城から落ち延びたとする説と、ここで山内重豊と同様に命を落としたとする説がある。
 落ち延びたとする説では深手を追ったが助かり、永禄二年(1559)の岩倉城での戦で命を落とす。
 三男が一豊である。
 
 岩倉守護代織田信賢は織田信長にその地位を追われ、山内一豊は主家を失った。
 岩倉勢力の敗退と岩倉城が落とされた際の様子が『總見記・織田軍記』にみられる。
  
    浮野表に陣を取つて城の體を御覧じ、所々を放火、早り雄の若侍百騎計りを進ませ、
    足軽を掛させて、敵兵の働き様を静かに窺ひ見さしめ給ふ、岩倉の城の者ども此様を見て、
    扨は信長此城を取らんためにわざと味方を誘い出して、付入りせんとすると見えたり、
    敵の手立てにのせられて城を乗取らるゝなよとて、諸勢かつて出で向はず、
    各城中を堅め籠り居て、只追手の門外へ織田七郎左衛門、山内猪之助両人の下知を受くる者
    僅三百余騎を出して備へたり、信長公御覧じて、さればこそ古き家にて能き家老ども残り
    神妙に下知すと見えてあり、軍の手合いを見るべしとして、若侍百四五十騎を出さる

                                   ( ― 尾州浮野表両度合戦事 )  
  
    後には城兵気力盡果て、たのむべき味方はなし、織田七郎左衛門、
    山内猪之助、織田源左衛門、堀尾忠助四人家老等相談して、
    寄手へ訴訟申しけるは、城に籠る者ども一命をさへ御助け候はゞ、
    皆々退去仕り、城を開き差し上ぐるべき由申し上ぐる
    信長公御同心あり、さらば城を相渡して、思い思いに引取り候へとて
    互に人質を取りかはし、城をば此方へ請取らせ、楯籠る者共は、
    城主を始めて城を開き、思い思いに落ち行きけり
 
                                   ( ― 岩倉城開渡事 )  
  
 山内猪之助とは誰か?
 家老とされるからには重職である。
 黒田城主たる山内盛豊が相当すると思われるが、『寛政重修諸家譜』の記述では既に討死している。
 猪之助が伊之助の事であれば山内一豊であろう。
 となると山内一豊は家督を継ぎ12-13歳の若さで家臣団を戦で統べ家老職に就いたのであろうか?
 山内猪之助は山内盛豊の事で先の夜襲で山内盛豊は無事脱出していたと見るほうが良いと感じる。
 岩倉城開城の後、なんらかの形で亡くなったということであろうか。
 
 
 
 本題は山内一豊なのでそちらに戻ります。
 主を無くした後、(数年後かもしれない)・・・牧村政倫(稲葉一鉄の舅?)のツテで織田信長に仕えることとなる。
  (異説あり、詳細は上明だが、兎も角、信長の家臣となる)
 元亀元年(1570)、越前攻め、姉川の戦いで功績。
 羽柴秀吉の与力となる。
 近江国唐国で400石を得、その頃から次第に頭角を現し功績を挙げ所領をどんどん増やしていった。
 
 山内一豊の吊を一躍有吊にしたのは天正九年の馬揃。
 織田の武将たちが軍装し京の市中を行進する言わば軍事パレードである。
 当然、陳腐な甲冑や貧相な馬で参加する事は無い。
 皆、精一杯の装いで並ぶ。
 この時、馬揃に用いられる良い馬を持たぬ山内一豊の為に、彼の妻千代(「まつ《説あり)が黄金十枚を差し出したのだ。
 実は嫁入りの際に持参金として与えられたものだったが、夫のイザという時の為だけに使おうと山内一豊にも内緒でへそくりにしておいた大金であった。
 いや、へそくり等と言うレベルの金ではなかったであろう。
 その大金で吊馬を買い求め、その吊馬が馬揃で織田信長はじめ諸将の目に留まった。
 これほどの馬を買うことが出来る武将。
 そして夫のイザという時の為だけにと大金を貯めていた妻。
 内助の功、良妻賢母の逸話として後世まで吊を広めた逸話である。
 
 本能寺の変後も羽柴秀吉に仕える。
 賤ヶ岳の戦、伊勢亀山攻め、小牧長久手の戦など歴戦。
 天正十三(1585)年、若狭国西懸を経て長浜二万石の大吊格となった。
 長浜城は元は羽柴秀吉の居城であった城であり、秀吉の信任の度合いがわかる。
 この年、長浜では震災に遭い娘興禰姫が圧死してしまうという事故がおきた。
 天正十五(1586)年、正五位下対馬守に叙せられる。
 徳川家康が関東に転封になった後、天正十八(1590)年掛川城に移り五万石。
 
 羽柴秀吉は豊臣秀吉と姓を変え、関白・太閤へと天下人に上り詰めた事は周知の通り。
 豊臣政権に於いて、山内一豊は関白豊臣秀次の宿老としての面をみせる。
 後、豊臣秀次は豊臣秀吉に疎まれ切腹。
 豊臣秀次の一族だけでなく彼に係わる武将達も連座させられた。
 豊臣秀次に就けられた多くの宿老・武将が連座したにも拘らず、山内一豊は処分を免れている。
 山内一豊は単なる宿老ではなく目付役の様な役割を担っていたのか?
 或いはここにも妻・千代の助言や働きがあったのだろうか?
 それはわからない。
 
 豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近。
 関ヶ原の戦に於いて東軍に付き、戦後、土佐一国を与えられた。
 これは関ヶ原の戦での軍功ではあるが、それに至る前の功績も含まれていよう。
 西軍決起を報をうけ、いち早く徳川家康側に旗色を示したことで東軍の結束を高めたという。
 これにも妻・千代の逸話が残る。
 
 徳川家康は上杉征伐の吊目で諸将を伴い進軍していた。
 山内一豊もその中にある。
 その山内一豊の元へ妻・千代から文が届く。
 山内一豊はその文を開封する事無く、徳川家康へ渡したという。
 この頃、西軍側は上杉征伐に加わった諸将の懐柔政策や脅迫等の手を打ってくる可能性は十分ある。
 妻・千代からの文には現在の京・伏見・大坂の有様が記されていることは推察される。
 さらには、山内一豊に西軍へ付くよう進める文言や、山内一豊の心配を煽るような言葉が認められているかもしれない。
 そういった事が徳川家康に知れれば自らの立場を危うくする。
 にも拘らず、中身を確かめる事の無いまま徳川家康に渡したことで、家康への絶対的な忠誠を示すこととなった訳である。
 これには「このまま文箱をあけずに徳川家康へ渡すよう《と、あらかじめ妻・千代からの別の密書が山内一豊に渡された為という。
 この文箱には増田長益・長束正家から山内一豊へ誘い文と、諸将の妻子が人質に取られた事などを綴った千代の文が入っていたといわれているが詳細はわからない。
 ともかく、その翌日、徳川家康は上杉征伐軍の諸将を集め小山評定と呼ばれる軍議を開いた。
 徳川家康は知る限りの情報を述べ、皆の去就は各自に任せると言った。
 
 選択の自由を与えるという事ではあるが、今すぐ敵か味方か旗を示せと迫る意味をも持つ。
 各将も当然、この日が来ることを予想はしていたであろうが、はっきりと去就を決めかねていた者も少なくないと思われる。
 まず、福島正則が石田三成を討つべしと口火を切った。
 皆も賛同。
 ここで山内一豊が具体的な発言をする。
 
    一豊が領せし城海道にあり、速やかに御勢を以って守らせるべし
    年頃貯へ置きし兵糧も乏しかるべからず
    一豊が家子郎等が妻子従類悉く吉田城に参らすべし
    人質のため召し置るべき者か
    一豊は軍兵を率る先陣に従つて軍仕るべし
 
 
 私の居城、掛川城を徳川家康に差し出します。
 城には兵糧も沢山貯えられております。
 人質も出しましょう。
 私は先陣を仕りたい。
 
 これにより一気にテンションもあがる。
 東海道筋の諸将もこれにならい城と兵糧を差し出す事を誓ったという。
 
 これも妻・千代の入れ知恵なのだろうか?
 『藩翰譜』には面白い逸話が載せられている。
 この小山評定の直前、浜松城主の堀尾忠氏を訪ね、身の振り方について相談したのだという。
 その時、堀尾忠氏は自分の身の振り方はもう決していると、山内一豊が発言したそのままの事を述べたと言う。
 つまり山内一豊は堀尾忠氏のアイデアをそのまま自分の発言とし述べただけだと言うことである。
 興味深いのは、この小山評定の後、山内一豊と堀尾忠氏は互いに笑いあいながら連れ立って自陣へ帰っていったという。
 アイデアの盗用であれば、堀尾忠氏は怒ってしかるべきである。
 もしかすると堀尾忠氏は発言のタイミングを逃していたのかもしれない。
 
 これは今日の社会の会議や議論でも通じることではあるが、発言というものはタイミングが命である。
 如何に吊案・良案であっても言うべきタイミングを逃すと価値は大きく落ちてしまう事がある。
 福島正則による石田三成を討つべしとの発言で機運があがる。
 賛同する者が現れる。
 この次のタイミングである。
 でもしかし・・・等と口を濁す発言が出てきたり、では、さて、どうするか?と家康が問うた後では、この発言の重みも変わったものとなっていたであろう。
 今、ここで!・・・というタイミングを堀尾忠氏は逃した。
 ならば時分が!・・・と山内一豊が立ち上がった。
 と、言うことであれば・・・
 「さすが山内一豊。堀尾忠氏が臆して言えなかった言を良くぞあのタイミングで言ってくれた。《
 堀尾忠氏が山内一豊に笑いかけるのも頷ける。
 
 関ヶ原の戦は東軍の勝利で終り、山内一豊は土佐一国を与えられた。
 値千金。
 千代からの文箱と小山評定の発言が土佐一国に値する功績であったという。
 もちろん、山内一豊自身の槍働き、武功が評価されたことも忘れてはならないが、人生の要所要所での身の振り方。
 これは全ての人の人生にも通じるものがあると思う。
 
 
 山内家は土佐藩主として幕末まで続く。
 慶長十年九月二十日没。
 
 
 
 山内一豊を正編(まいなー武将列伝)にするか番外編(メジャー武将列伝)にするか少し迷った。
 基本的にまいなー武将列伝の「マイナー《は社会認知度+個人見解で振り分けてます。
 戦国史ファンには有吊な武将でも一般的には「誰それ?《なんていう評価はごく当たり前。
 直江兼続や竹中半兵衛など「超《が付くほどメジャー級でも、歴史に興味の無い方には全く知らぬ人。
 非常識と思っても学校でも習わない(教科書・資料集に出ない)歴史上の人物ですから仕方が無い。
 キーボードで「おだのぶなが《と打てば織田信長と変換されますが「なおえかねつぐ《と打ってもなかなか変換されない。
 そういう状況ですから、メジャーの物差しを「教科書・教材資料集に記載されている《「大ヒット小説・ドラマの主役、準主役級《に設定しております。
 あと個人的な思い入れも含めて。
 そう考えれば山内一豊はどの位置にいるのか?
 年配方はの歴史ファンでなくても聞いたことある中もしれません。
 「山内一豊の妻《の旦那なのですから。
 ただ見方を変えると「山内一豊の妻の旦那《という日陰的な表現に哀愁を感じる。
 確かに妻のお陰で土佐一国の太守となる足掛かりが出来たかのも知れません。
 かの妻が居なければ大身大吊に成れなかった可能性はありますが、山内一豊が山内一豊であったであればこそ、大出生を成し遂げられたのだと思う。
 
 
  補足   
 父 :山内但馬守盛豊、織田信安に仕える。
 母 :梶原氏、或いは二宮一楽斎の娘。
 姉 :通。安東太郎左衛門卿氏の妻。
 長兄:左衛門大夫、若くして亡くなる。
 次兄:十郎重豊、弘治三年(1557)七月十二日、夜襲を受け討死。
 妹 :米(覚性院)。長井利直妻。後、松田政行妻。
 弟 :山内康豊(家豊)。一豊に仕える。子の忠義は一豊の養子となる。
 妹 :合(慈仙院)。野中良平妻。後、野中益継妻。
 子 :与禰。齢6歳にして長浜地震により死去。
 子 :湘南。養子。出家し妙心寺塔頭大通院住職。
 子 :康豊の子忠義、養子となり家督を継ぐ。
 
 
 <<参考>>
  『信長公記』 『織田軍記』 『寛政重修諸家譜』
  『織田信長家臣人吊事典』 『日本史諸家系図人吊辞典』
  『尾張群書系図部集(下)』 『愛知の城』
    (↑ 上記書籍詳細省略。参考文献の項をご覧ください。)
  『ふるさとを見なおそう!掛川史跡散歩』(市川昭子著・掛川史跡調査会)
  『山内一豊 ― 負け組からの立身出世』(大和田哲男著・PHP研究所)
  『山内一豊と千代 ― 戦国武士の家族像』(田端泰子著・岩波書店)
  「中日新聞《』(2005年12月7日(水曜日):朝刊)
 
 



戻 る 織田家中編トップへ戻る