山岡景隆。 美作守。 栗太・志賀郡を本拠としてもと六角氏に仕える。
当初は信長に抗していたが敵わず逃走。そののち投降する。
永禄十二年(1569)の伊勢大河内攻め頃から参陣。
佐久間信盛の与力として組まれていたが信盛追放後は直属部隊となった模様。
景隆は信長の信頼を得るためにかなりの労を費やしたのではないかと思われる。
当初、信長に抗したからでもあって「強い物にはまかれろ」的についてきたと思われても
仕方がないだろうし。
また景隆の領地は六角承禎・松永久秀に挟まれていたことから、何時裏切るかもわからない
とも考えられていたに違いない。
事実『信長公記』には元亀元年の項に 「勢田の郷中へ懸入られ候の処 信長公志賀の御城より
御覧時じ 去ては山岡美作守 佐々木承禎を引入 謀反相構え候かと御不審に思食候処」
と、いった文が見える。
(山岡景隆=山岡美作守 佐々木承禎=六角承禎 佐々木は六角氏の本姓)
他の多くの家臣の例にもれず新参の景隆は有力武将の与力に組み込まれる。
佐久間信盛の麾下であるが景隆の弟景佐(かげすけ)は別にされ明智光秀の
与力に組まれた。
景隆の領地が信盛と光秀の担当地域の境界線にあったためでもあろうが、やはり謀反防止の対策とも
考えられなくもない。
天正三年(1575)七月、勢多橋の建造を命ぜられる。
たがてこの勢多橋が景隆を象徴する橋となる事件が勃発する。
天正十年(1582)六月、本能寺の変である。
明智光秀は勢多を近江からの敵侵入に備えるための要として考えていた。
その為、すぐさま山岡兄弟に使いを出す。 「人質出し明智と同心仕候へ」と。
だが景隆の返答は否である。
「信長公の御恩浅からず中同心申間敷の由候」
景隆は勢多橋を焼き払い山中へ逃げ込んでしまった。
光秀は景隆が当然味方につくものと考えていたのではなかろうか。
殊に弟景佐は光秀の与力である。
景隆は離反を疑われながらも忠勤に励み徐々に信頼を勝ち取ってきた律儀な男である。
光秀はこの景隆の気性を見抜けなかったのだろうか。
これにより光秀は当初考えていた持ち駒となるはずの勢力をひとつ失った。
清洲会議後の信雄信孝の争いに於いては信雄側についた。
しかし信孝に通じていたと疑いを掛けられ出奔する。
その真偽は定かではないが所領は没収され表舞台からは姿を消した。
天正十三年(1585)幽居先の近江国甲賀郡毛牧村にて没する。
子、景宗は父と同じ行動をしており同じ境遇の道を歩んだ。
但し父の所領没収後は豊臣秀吉に仕え馬廻りをへてのち徳川家康に仕えた。
弟、景佐は秀吉にお咄衆として仕えたのち家康に仕え近江にて九千石を領した。
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