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加藤順盛。 図書助。 加藤順光
加藤家は藤原氏を祖とし伊勢山田で神官の家で代々図書助を名乗る。
順光の父・景繁の時、熱田に移ったと伝わる。
(一説には景政の代に熱田に移住、景繁は初め美濃岩村城に仕えたともいう。)
加藤家は商家としても頭角をあらわし、信秀・信長・信忠らから諸役の免許を賜った。
順光の弟・隼人佐延隆は分家し、以降図書助家(順光・順盛)を東加藤、隼人佐家(延隆)を西加藤と
呼んだ。
徳川家康が幼少(幼名で竹千代と呼ばれた)の頃に今川家へ人質として差し出されていたが、今川家に
移送中に織田家へ捕らわれてしまった時期がある。
このとき織田信秀の命により竹千代を預かり育てたのが加藤順盛である。
桶狭間の戦いにおいて熱田で信長を出迎え神宮での戦勝祈願に立ち会う。
この時、信長は順盛に酌をさせて 「今日の戦に勝とう(加藤)。」と祝ったと、系譜に伝わるという。
また200人ほどの熱田の町人たちに竹竿をもたせて集結。
これは今川方に織田方の人数を多く見せるための計略という。
また白布や菖蒲幟など旗指物に見えそうな物を熱田中にくまなくたてさせることによって、織田本陣が
熱田にあるようにも思わせた。
順盛の子・弥三郎は信長に小姓として仕えていたので実際に槍をとって参陣した。
(最初に付き従った5騎の一人。 のち三方が原にて討死。)
子は12人もうけている。
嫡男順政が家督を継ぎ、後々も熱田の名家として栄えた。
女子は下方貞清、佐久間左京ら信長の家臣達に嫁いだ子も少なくない。
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