マイナー武将列伝・織田家中編 




 和田新助 
 わだ しんすけ 
 生没年   ?〜1574   主君・所属   織田信清・信長 
主な活躍の場   
 
 
 詳しい事は不明な点が多い。
 幕臣でのち信長に仕えた和田維政の一族(兄弟)とする説もあるが、それはどうかと思う。  飛躍しすぎではなかろうか。
 織田信清の家老。 黒田城主。

 
 織田信清は織田信長の従兄弟にあたる一門衆である。
 信清麾下の将として信長に従軍、尾張上四郡守護代織田信安勢を浮野の戦いで討つ。
 だが信長と信清が不和となり信清は美濃と結んだ。
 これにより信長が犬山勢を攻めるきっかけとなった。
 犬山城の南に於久地(小口)城があり中島豊後守が守っている。
 黒田城は西に位置し一宮側から信長が攻め込むのを防いでいた。
 
 このころ信長は尾張の大半を支配していた。
 美濃攻略に備え居城を清洲から小牧山に移転する。
 だがこれは同時に犬山城への牽制ともなった。
 小牧山城から犬山城までの距離、直線にしておよそ10Km。
 清洲城からの距離のちょうど半分である。
 わずか10Kmの地点で本拠地があれば主力軍がわずかの間に城を取り囲むことも出来る。
 小牧山城から犬山城への道のりは黒田城よりも近い。
 黒田城の重要性が失われてしまう。
 和田新助は於久地城城主中島豊後守とともに信長に降った。
 そして二人の家老と二つの前衛基地を同時に失った犬山城はこれにより開城することとなった。
 
 その後信長の一将として働く。
 大河内城攻めや伊勢長島一向一揆攻め等、中島豊後守とともに従軍している。
 天正二年(1574)の伊勢長島攻めの際、討死したという。
   

  補足   『信長公記』では和田新助死後、天正六年(1578)に和田八郎の名が出てくる。
 同時に中島勝太という名も見られる。
 中島勝太もともに不意にあらわれており続けて記されているので、それぞれ和田新助・中島豊後守の子か。
 



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