織田太郎左衛門信張。 左兵衛佐。 寛廉。 信純。
於台(小田井)城主・織田藤左衛門寛故の子。
織田藤左衛門家は織田弾正忠家(信長の家系)・織田因幡守家とあわせ尾張下四郡守護代織田大和守家の
三奉行であった。
織田藤左衛門家は信秀の代に相争った時期もあったがのち和睦。
国内外の戦が続くうち藤左衛門家の当主寛維や因幡守家当主らが戦死。
弾正忠家の信秀がより強い実権を握ったのであろう。
また信張の妻は信秀の弟・信康の娘。
従って信長とは義理の従兄弟にあたる。
弘治二年(1556)七月、『信長公記』に信長が「おどりを御張行」とある。
その中に信張の家来衆が地蔵に扮したとあるから、このころは既に信長の配下となっていたのではないかと思われる。
近江浅井攻め・比叡山の焼き討ちなどに従軍。
天正五年(1577)紀州の雑賀攻めに従軍して以降は、主に紀伊方面の押さえ役となった。
岸和田城へ入城。
一般に言われる柴田勝家や明智光秀などを将とした方面軍には属さず、信長直轄の遊軍的な存在でもあった。
本能寺の変の直後の動向はよくわからない。
のち尾張に戻り信雄に仕え1100貫文の知行を与えられた。
佐々成政が肥後の地での失政により切腹を命じられた後、秀吉より八代城を与えられたが固辞したという。
文禄三年(1594)近江大津で没す。
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