|
岡田助右衛門重孝。文献により直孝とも。
長門守と称す。
岡田重善の子、母は水野孫次郎の娘。
父の死後、遺領を継ぎ星崎城主となる。
織田信雄に仕え、津川玄蕃義冬・浅井田宮丸と並び三家老と称される。
織田信雄・織田信孝の後継主導権争いと羽柴秀吉・柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに決着がつくと
一時的に連合していた織田信雄と羽柴秀吉の仲は急速に冷えていく。
羽柴秀吉は織田信雄を支える三家老の懐柔策に乗り出す。
三家老は羽柴秀吉にはなびかなかったのだが、織田信雄は三家老に疑いを持ち遠ざけるようになってしまう。
羽柴秀吉にしてみれば三家老を懐柔せずとも織田信雄から切り離しさえすれば良かったので、織田信雄は
まんまと策にはめられたと言うことであろう。
天正十二年(1584)三月、織田信雄より和解のため三家老は長島城に呼び出され馳走を受ける。
晴れて疑いが解かれたと思いきや、ここに謀略があった。
織田信雄は天守からの眺めを見ようと三家老を誘うが、そこの武者隠しには織田信雄の命を受けた土方勘兵衛が刺客として潜んでいたのである。
かくして岡田重孝は騙し討ちともいえる罠にはまり討ち取られた。
他の家老津川玄蕃・浅井田宮丸も逃げだそうとしたところを同じく書院脇に潜んでいた森久三郎、飯田半兵衛にそれぞれ討ち取られた。
後年の織田信雄の世渡り上手には目をみはるが、この頃は羽柴秀吉や徳川家康から手玉にとられっぱなしである。
伊勢北畠時代からの失策の数々、織田信孝を追い込み、腹臣の粛正、転封拒否・・・そんな失態を重ねていくうちに、
ようやく学ぶ事をおぼえたのか。
それにつけても織田信雄がまだ後先を考えず行動していた頃の家臣というものは全く報われないものだ。
この三家老の粛正を期に織田信雄は秀吉と断交、小牧長久手の戦いへと結びついていった。
| |
|