マイナー武将列伝・織田家中編  

 
 
 
 佐々政次 
 さっさ (ささ) まさつぐ 
 生没年   15??〜1560   主君・所属   織田信長 
主な活躍の場  小豆坂の七本槍・桶狭間の戦い 
 
   
 隼人正。下野守。
 佐々盛政の子。
 同じく小豆坂の七本槍の一人佐々孫助、のち織田信長家臣の重鎮の一人となる佐々成政の兄。
 佐々氏は佐々木の一族という。
 平の城(尾張春日井郡比良村)を本拠地とする。
 もとは尾張上半国の守護代に属していたという。
 
 永禄三年(1560)桶狭間の戦いにて千秋四郎季忠とともに鳴海方面を攻め大敗討死している。
 鳴海攻めは300人の将兵で今川方の先鋒隊を襲撃したものである。
 この作戦は失敗に終わったが、これは桶狭間へ侵攻する織田の奇襲本隊の動きを察知されない為の陽動作戦であるとみる説と、佐々政次・千秋季忠両名の抜け駆けであるみる説とがある。
 
 尚、この出撃に際して佐々政次が
 
   ソレカシ命ヲステ候ハヽ。 今日ノ御合戦ニ御カチ候事必定ナリ。 
   今日天下ワケメノカツセンコレ也。 
   天下ヲヲサメタマヒ候時。 
   弟内蔵佐我等セカレヲ。 御ミステサセタマハテトテ。 
   我々ハ東ムキニ。 今川ハタ本ヘミタレ入ヘシ。 
   殿ハワキヤリニ御ムカヒ。 テツホウユミモウチステ。 
   タヽムタヒニ。 ウチテカヽラセタマヒ候ヘトテ。 
 
  (『道家祖看記』(続群書類従 第二十輯上 収)
 
    (意訳)
      私(佐々政次)が命を捨てて掛かれば、今日の合戦には必ず勝つことが出来ましょう。
      今日の戦は天下分け目の合戦です。
      天下を治め下さい。弟(成政)と私の息子(清蔵)を宜しくお願い致します。
      我々は東へ向かい、今川義元の本陣へ乱入します。
      殿(信長)は脇槍に向かわれ、鉄砲も弓も捨ててただただ一途に義元に打ちかかられるがよろしいでしょう。
   
 と、信長に言ったとも伝わる。  
 やはり政次自らが陽動を志願したのか。
 どちらにせよ佐々政次・千秋季忠両名は討死してしまった。
 そしてこの報を聞いた信長の心情はいかなるものかは定かではないが、敵将今川義元は
   「義元が戈先には天魔鬼神も忍べからず。  心地はよし。」
 と、喜んだという。
 鷲津・丸根砦の陥落に続く朗報に義元が一段と油断した結果となった訳であるから、
 佐々・千秋両将の死も無駄死にではなっかった。
 
 
 
  補足   
 *  小豆坂の七本槍 −−− 天文十一年(1542)、岡崎の小豆坂における戦い。 信長記外伝8巻「父・信秀」参照
 * 弟 佐々孫助 −−−武将列伝・佐々孫助参照、
 * 弟佐々成政
 * 子は清蔵。
    織田信長の嫡男・信忠の小姓となり、本能寺の変の折、二条御所で討死。
   
   
 
 
 

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