みなもと よしとも |
生没年 | 保安四年 (1123)〜永暦元年(1160) | 信長との縁 | 源氏/尾張・熱田にまつわる人物 |
主な活躍の場 | 保元の乱・平治の乱 |
清和源氏の惣領。 源頼朝の父。 左馬頭。下野守。播磨守。内大臣。 保元元年(1156)に保元の乱が発生する。 律令制の政治は天皇を中心に太政大臣、左大臣・右大臣などを筆頭としたピラミッド体制の政治制度で始まった。 摂関政治と呼ばれるように、その政治の中枢が摂政・関白へと移っていった事は歴史の授業で度々習うことですから詳細は割愛します。 また、天皇を退位し上皇となった状態で実験のみ握り続ける院政も然り。 この二重三重に絡まった権力構図が次第に対立を生み実力行使にでたのが保元の乱でしょう。 崇徳上皇・後白河天皇の対立と関白藤原忠通・左大臣藤原頼長の対立が互いに手を結び、崇徳上皇・左大臣藤原頼長派と後白河天皇・と関白藤原忠通派の対立となる。 (長いので崇徳上皇・左大臣藤原頼長派=上皇・左大臣派、 後白河天皇・関白藤原忠通派=天皇・関白派と表現します。) 尚、関白藤原忠通と左大臣藤原頼長は兄弟である。 ここに源平など武家が絡んでくる。 源氏の惣領為朝は左大臣藤原頼長に臣従していた為、当然、上皇・左大臣派。 が、その子、源義朝は後白河天皇の姉上西門院の寵愛をうけており天皇・関白派に付く。 父子が対立する図式となった。 平氏も上皇・左大臣派の平忠正と天皇・関白派の平清盛、叔父-甥で対立する。 結果は天皇・関白派が勝利する。 源氏は関東・東海を中心に東国に領地・勢力圏を持ち、平氏は近畿が多い様に思われる。 地理的な利点もあったのだろうか? もちろん、それが原因ではないが平清盛は徐々に朝廷に重く置かれる様になっていく。 後白河天皇は保元三年(1158)に譲位し上皇となる。 (上記図で上皇と天皇の対立の結果、上皇が破れ・・・を、院政体制が破れた様に受けとられる事もあるが、実際に院政が消えたわけではない。) 後白河院政下でも家臣間の対立は続く。 平治元年(1159)、藤原信西と藤原信頼の対立が悪化する中、源義朝は藤原信頼、平清盛は藤原信西と接近。 源義朝-藤原信頼は後白河法皇・二条天皇を幽閉し藤原信西を討つ。 平清盛は後白河法皇を救い兵をあげ、結果、源義朝は敗れてしまう。 源義朝は尾張へ敗走。 源義朝は尾張国熱田宮大宮司藤原季範の娘(由良御前?)を娶っていた。 尾張は源義朝の勢力圏であったのだ。 陸路は危険と感じたのか伊勢湾を渡って尾張南部の知多半島へ流れ着いた。 知多野間荘の長田忠致に匿われる事になるが、長田忠致は源義朝を忙殺してしまう。 長田忠致は共に落ち延びた家臣の鎌田政家(正清)の妻の父である。 それゆえ、安心していたのであろう。 湯殿で討たれたのである。 当然、槍も刀も無い丸腰姿。 我に木刀の一本なりとあらば、おめおめ討たれはすまいに 源義朝はそう言葉を残したという。 野間の地には野間大坊(現知多郡美浜町)という寺が建ち源義朝の無念を弔うために、彼の墓へ木刀を供える習慣がある。 多くの木刀が供えられ小山の様になっている。 尚、源義朝と熱田大宮司藤原季範の娘(由良御前?)との間の子が源頼朝である。 |
補足 |
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