たいら あつもり |
生没年 | 嘉応元年 (1169)〜元暦元年(1184) | 信長との縁 | 平家/信長の好んだという幸若舞の人物 |
主な活躍の場 |
平経盛の末子。 平経盛は平清盛の弟。 従五位下。散官。 官職が無いため「無官の大夫」と称される。 織田信長が『敦盛』を好んで舞ったと伝わることから戦国史ファンにとっては馴染の有る名前である。 元暦元年、一の谷の戦で平氏は敗走するが、その最中の出来事。 平敦盛は若年ながら笛の名手とも知られる。 平氏軍が敗走する際、漢竹の横笛(青葉の笛・小枝)を忘れ取りに戻る。 笛を愛する故の行為か、若さ故の行為か・・・。 結果、退避の為に用意された舟に乗り遅れてしまう。 平敦盛は遥か沖の船を目指し馬を飛ばす。 一方、源氏の武将、熊谷直実。 彼は一の谷の戦では未だ大した手柄は無く無念と思っていた所へ逃げる平敦盛が目にはいった。 若年と言えど平敦盛は平清盛の甥にあたる。 将としての格式高い甲冑姿であっただろうと思う。 熊谷直実にとっては高名をあげる格好の獲物。 熊谷直実は平敦盛を勝負を申し呼び止めた。 船上の平氏達も平敦盛に気がつき、平敦盛を助けようと海岸へ船を戻そうとする。 しかし波風が強く思うように舵が取れない。 平敦盛も若年故の未熟さか馬を捌き波を超える事に手こずる。 熊谷直実は更に勝負を挑むが、答えない平敦盛に対して、ならば矢を放つと。 平敦盛は矢で射られるくらいならと覚悟を決めたか勝負を受ける。 結果は老練な熊谷直実の勝ち。 いざ頸を獲ろうと組み伏せた敵の顔をよくよく見ると14〜5歳ほどの若武者。 名を尋ねてみれば平敦盛、16歳と言う。 熊谷直実の子・小次郎直家は、父と共にこの戦いに参加し命を落としたばかり。 その熊谷直家も16歳。 我が子を重ね、また16歳の子を亡くし悲しむ父平経盛の姿を自分に重ねてしまう。 折角、組み伏せたはず敵将の頸を刈ろうとしない熊谷直実の姿を見て源氏の諸将も訝しむ。 熊谷直実に異心あり。熊谷直実もろとも討ち取ってしまえと。 ようやく覚悟を決め熊谷直実は平敦盛を討ち取った。 一の谷の戦は源氏の勝利に終わったのだがこの出来事は熊谷直実の心を苦しめる。 翌年、屋島の戦いが行われるのであるが、その報を聞き、熊谷直実はまた同じ苦しみを思う出来事が起こるのかと悩む。 その段でようやく著名な一文が登場する。 人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか 以上が『敦盛』のあらすじの中段部分を大まかに書いたもの。 『舞の本』岩波書店刊 新日本古典文学大系 を参考に致しました。 『舞の本』は江戸期に書かれたもので舞を物語調に下ろしたもの。 信長が舞った幸若舞の敦盛そのものとは異なるかもしれませんし、私の解釈の不備もあるかもしれませんがご容赦。 また、これはあくまでも物語だという事だそうです。 物語では熊谷直実は無常観を感じ出家するのですが、実際は所領争いから出家に至った様である。 子の熊谷直家も16歳で討死ではなく53歳病没なのだそうだ。 夢幻の如くな物語である。 |
補足 |
熊谷直実。 武蔵の私市(きさいとう)党という。 熊谷直実の父熊谷直貞は平盛方の子から熊谷家の養子となった。 故に彼も平氏の血を引いてはいる。 <<<参考文献>>> 『群書系図部集』第二 群書類従完成会 刊 『舞の本』新日本古典文学大系 岩波書店 刊 『日本史辞典』 角川書店 刊 『日本史諸家系図人名辞典』 講談社 刊 |