武将列伝番外編組列伝・尼子十勇士(尼子十介) 




 尼子十勇士 
 あまごじゅうゆうし 
 登場した時代・場所   尼子遺臣 
 構 成   山中鹿之介・安宅庵介・横道兵庫介・早川鮎介・尤道理之介 ・寺本生死介・植田早苗介・深田泥介・藪中荊介・小倉鼠介 
 由 来   
 尼子氏といえば山陰を中心に因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐・播磨・美作・備前・備中・備後・安芸と、 その最盛期には11ヶ国を支配下に納めた大々名であった。
 その尼子氏も時の流れとともに没落。
 永禄十一年(1568)、毛利氏によって攻めこまれ戦国大名としての尼子氏の歴史は終わった。
 だが、これを潔しとせず尼子の遺臣達は尼子の名君経久の血を引く勝久を奉じ、尼子の再興をかけて 立ち上がった。
 そのとき山中鹿之介を中心に集まった十人をたたえて尼子十勇士と呼ぶ。
 十人みな介の字がつく為、「尼子十介」ともいう。
 
 山中鹿之介  (1545?〜1578)  山中鹿之介幸盛(やまなか しかのすけ ゆきもり)。  一度亀井氏の養子となるが山中姓に戻り家督を継ぐ。  十勇士の筆頭。 最初は単独で蜂起したが敗退。 織田信長をたより再度蜂起。  最終的に悲願は達成できず、毛利の囚われの身となるが護送中殺害される。  月にむかい「我に七難八苦をあたえまえ。」と誓った苦労人である。

 安宅庵介  (不詳)  安上庵介久家(あきあげ いおりのすけ ひさいえ)。  出雲森山城主。 彼も最終的に毛利の軍門に降ることになる。

 横道兵庫介  (不詳〜1570)  横道兵庫介正光(よこじ ひょうごのすけ まさみつ)。  毛利氏に出雲布部山城を攻められた際、戦死。  彼を打ったのは姪婿の中井善左衛門であったという。

 早川鮎介  (不詳)  早川鮎介(はやかわ あゆのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。

 尤道理之介  (1545?〜1578)  尤道理之介(もっとも どうりのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。  しかし、私はこの名前が大好きなんです。

 寺本生死介  (不詳)  寺本生死介(てらもと せいしのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。

 植田早苗介  (不詳)  植田早苗介(うえだ さなえのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。

 深田泥介  (不詳)  深田泥介(ふかだ どろすけ? でいすけ?)。  すみません。 全然知らないのです。

 藪中荊介  (不詳)  藪中荊之介(やぶなか いばらのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。

 小倉鼠介  (不詳)  小倉鼠介(おぐら ねずみのすけ)。  すみません。 よく知らないのです。

    すみません。 本当はよく知らないのです。
 ただ、彼らの名前が妙に目に焼き付いてしまって・・・
 当時、山陰では奈佐日本介(なさ やまとのすけ)という海賊もいて、 実は彼も尼子再興に一役買ってるんです)意識的に、一見ふざけたような 名前を自称したとしか思えない。  人は名誉を重んじ、名をあげ、名を残すことに全力を注ぎます。  彼らはそれさえも(一見ふざけたような名で)捨て、主家再興の為だけに 全力を尽くしたのであろうか?

  補 足   



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