武将列伝番外編組列伝・賤ヶ岳の七本槍 




 賤ヶ岳の七本槍 
 しずがたけのひちほんやり 
 登場した時代・場所   安土桃山時代・羽柴秀吉麾下 
 構 成   福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治 ・糟屋武則・片桐且元 
 由 来   天正十一年(1583)、羽柴秀吉と柴田勝家が織田勢力を二分し 天下を賭けた戦い。
 その戦いに於いて、功名をあげた秀吉方7人を讃えた。
 
 福島左衛門大夫正則  (1561〜1624) 尾張衆。 秀吉の従兄弟という。  賤ヶ岳の戦功の筆頭として5千石を与えられる。(他は3千石。) 以後、戦功を重ね尾張清洲20万石城主。  関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功により安芸広島49万石に封じられる。 広島城の修復に難癖をつけられ除封される。 

 加藤肥後守清正  (1562〜1611) 尾張衆。 秀吉の又従兄弟という。  肥後熊本城主として25万石を与えられる。  朝鮮出兵でも活躍。 現地でも名をとどろかせるが、石田三成・小西行長との不和により策略にはまり秀吉の勘気にふれるがのち和解。  関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功により肥後一国52万石に加封される。 

 加藤左馬助嘉明  (1563〜1631) 近江出身であるが元は三河の武家であった。   伊予松山20万石城主。 主に瀬戸内の水軍を統率。 朝鮮出兵では舟奉行を務める。 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その功により会津若松48万石に封じられる。

 平野遠江守長泰  (1559〜1628) 尾張衆。 大和田原本で5千石。 唯一大名になれなかった男。  秀吉と折り合いが悪く、たびたび衝突したらしい。 それでも豊臣の政を賜る。 秀吉も一応、目はかけていたのか。  関ヶ原の戦いでは東軍に属す。 さしたる功績もなく5千石を安堵されたにとどまる。  晩年は安西衆(家康の御伽衆)となった。

 脇坂中務少輔安治  (1554〜1626) 近江衆。   淡路洲本城主となり淡路水軍を統率。 知行は3万3000石。  関ヶ原の戦いでは西軍に属していたが東軍に内応、大谷刑部を攻める。  その功により伊予大洲城主5万3千石。 のち信濃飯田へ転封、それを機に隠居。

 糟屋助右衛門武則  (不詳) 播磨衆。 播磨加古川1万3千石城主。  関ヶ原の戦いでは西軍に属し伏見城攻めに参加。 敗戦により領地を失う。 後、500石にて幕府に仕えた。

 片桐東市正且元  (1556〜1615) 近江衆。 賤ヶ岳の戦功後   秀吉の信頼も篤く豊臣の姓を賜り、秀頼の傅(守り役)を命ぜられる。 摂津茨城11万石城主。  関ヶ原の戦い以降、豊臣家の家老の筆頭として徳川家康と手を結ぶことで秀頼を守ろうとするが淀君の勘気にふれ(家康の策略)大阪城を退去を余儀なくされる。  豊臣家滅亡後「臣、使命を奉じて、無状功なし」と自刃した。

  補 足   



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