武将列伝番外編組列伝・四姓 




 織田信長の四長 
 おだのぶながの四おとな 
 登場した時代・場所   室町時代後期・尾張織田弾正忠家 
 構 成   林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介 
 由 来   
 織田信長が幼少の頃、傅(守り役)として付けられた四人の宿老。
 尾張下四郡守護代の奉行・織田弾正忠信秀は嫡男吉法師(のちの信長)が誕生すると那古屋城を吉法師に与えた。
 このとき四人の長が吉法師につけられたことが『信長公記』も記述にみられる。
 長(おとな)とは乙名、大人などとも書き、宿老などの要職につく人物を意味する。
 ただし、この四長は全員が宿老という高職というわけではないようにも思える。
 筆頭の林秀貞が最高位で順々に降って、内藤勝介あたりは中堅職ではなかろうかと考える。
 
 
 林秀貞  (不詳)   林通勝が一般知られる名。  新五郎。 佐渡守。
 織田信秀の筆頭家老であったともいう。 まぎれもなく宿老だった。
 だが、素行のままならぬ信長に愛想を尽かし弟美作守とともに信勝を擁して謀反を起こす。  信長によって敗れた後、許されて復権。
 しかし、天正二年(1574)突然追放される。  その後の詳細は不明。  

 平手政秀  (1492〜1553)    清秀ともいう。 五郎左衛門。 中務丞。
 一般に信長の守り役というと、この人物が思い浮かぶ。  事実、一番信長に親身になって付いていたのではないか。
 信秀の名代で上洛、内裏修理料を献上するなど宿老としての役割を果たしている。  御台所賄いの役(財務担当)もこなし、また物事に花奢な(風雅な)人でもあったらしい。
 天文二十二年(1553)、信長を諫めるため自害。  

 青山与三右衛門  (?〜1547)   資料などあまり残っていない。
 天文十六年(1547)9月、信秀は美濃の斎藤道三を攻める。  与三右衛門もこれに加わり稲葉山城下まで攻め入るが、陣を引く際に道三の猛攻にあい討死。  

 内藤勝介  (不詳)   さらに不明。
 天文二十二年(1553)山口教継父子の反乱による赤塚の戦いでの『信長公記』の記事では、 御さき手あしがる衆とある。  足軽という意味なら長(おとな)の地位を失墜したのか。  それとも既に当時は死亡または隠居し、一族の誰かが同名を称していたのか。  私自身は、足軽大将クラスという意味と受け取っているのですが。
 (あしがる衆の中に落馬という文字もあるので、 あしがる衆と記述されど純粋に全員が足軽とは思えぬ。)
 武将列伝織田家中編に内藤勝介の項あり。  

  補 足   


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