武将列伝番外編・女性列伝・真理姫 




 真理姫 (真竜院) 
 まりひめ (しんりゅういん) 
 生没年   1550?〜1647   主君・所属   武田信玄の娘・木曽義昌の室
 
 
 真理姫、真竜院。 武田信玄の娘。 木曽義昌の室。
 天文十七年(1548)生まれ、天文十九年(1550)生まれ等諸説あり。
 
 家系図 (『郡書系図部集』続郡書類従完成会刊より) を見ると武田信玄の娘は 五人いることになっている。
 しかし一人夭折した娘桃由童女というのがいるらしいので実際は六人の娘をもうけていたのだろう。
 長女は北条氏政に嫁いだ黄梅院。
 次女は穴山梅雪に嫁いだ見性院。
 三女が桃由童女で四女が今回紹介する真理姫。
 五女は上杉景勝に嫁いだ菊姫で六女が先に紹介した松姫である。
 
 生母の方は黄梅院・見性院が信玄の正室三条夫人、菊姫・松姫が油川夫人とはっきりしているのに対して あまり定かではない。
 菊姫・松姫と同じく油川夫人を母にするという説もあるようだ。
 
 弘治元年(1555)、信濃南部の木曽義昌に嫁す。
 木曽氏は信州木曽としてしられる木曽一帯を抑える豪族で当時の領主は義昌の父義康である。
 源平合戦で知られる木曽義仲を祖として次男義基から数えて15世目の子孫が義康だ。
 信州南部ではそれぞれの地域ごとの紛争はあまりなかったようで木曽氏と抗争を続けていたのは隣国 飛騨の三木氏ぐらいであった。
 その三木氏とも和議を結ぶに至って平和な地域となったり仁政がしかれていたが、 今度は三木氏では比べものにならない強大な武田氏が攻めてきた。
 信州各地域の領主、小笠原氏・村上氏・諏訪氏などが信玄に対抗したが、義康もこれに加わる。
 しかし、あえなく信玄の軍勢に服することとなった。
 この時に真理姫は義康の子義昌に嫁いだのである。
 
 それでは、信玄が義康に娘を人質としてとられたようなものではないか?
 と、考えられるかもしれないが、もはや信玄の勢いに対抗などできないと思っていたのであろう。
 義昌が家督を嗣げば正室真理姫の発言は武田氏の意見として力を増す。
 それに真理姫との間にもうけられた男子が家督を嗣げば次世代には木曽氏は武田の一門衆となり信州の 堅めはより強固なものとなろう。
 もちろん真理姫はまだ幼少であるので次世代まで考えるのは遠望過ぎるかもしれない。
 しかしやはり信玄の目は既に木曽の向こう美濃を向いていたに違いないと思う。
 事実、真理姫一男一女を産み、二人は甲府で育てられている。  (男子は千太郎)
 また義昌の生母も甲府に置かれていた。
 これは紛れもない人質である。
 
 天正元年(1573)、武田信玄死去。
 天正三年(1575)、長篠の戦いで大敗。
 そして真理姫の運命は大きく変わる。
 義昌が武田を裏切った。
 織田信長に通じたのである。
 義昌としては当然の判断だったのかもしれない。
 もともと独立した勢力だったのがより強大な力に押され屈した。
 今またもっと強大な勢力が攻め込もうとしているので先に保険を掛ける。
 これには一族の存亡がかかっているのである。
 
 だが、一つの判断は一つの犠牲を生む。
 それが戦国の世の悲劇でもあった。
 武田勝頼は義昌の裏切り行為を許さなかった。
 これも当然の怒りである。
 その怒りは人質を殺す(逆さ磔)という行為を生じた。
 これも戦国の世のならいであろう。
 
 だが真竜院(真理姫)にとっては夫の裏切りにより我が子我が娘を実兄の命によって殺害されたのである。
 真竜院は夫の仕打ちを恨み城を抜け出した。
 また甲府に帰ることもしなかった。
 (もっとも帰ることも出来なくなる訳であるが。)
 木曽の黒沢山中で隠棲生活を送ったという。
 真竜院がその生涯を閉じるのは正保四年(1647)。
 九十八歳である。(天文十九年生まれとして数え年)
 武田家の娘、木曽氏の正室として雅やかな生活を送った年月よりも遙かに永い年月を隠棲生活で過ごした。
 
 一方、義昌は信長より安曇・筑摩の2郡を与えられるが、本能寺の変・小牧長久手の戦いなどを得てのち、 木曽領を秀吉に接収される。
 義昌の子義利が下総国阿知戸に1万石を得ており、阿知戸に移り住み子の地で没した。
 永禄四年(1595)のことである。
 また義利の領地もその後改易された。
 
 義昌の死、木曽氏の断絶も年老いた真竜院の耳に届いたのであろうか。
 
 
  補足   
 



戻 る 女性列伝のトップページへ戻る