武将列伝番外編・女性列伝・義姫 




 義姫 (保春院) 
 よしひめ (ほしゅんいん) 
 生没年   1548〜1623   主君・所属   伊達政宗の生母 
 
 
 義姫。 伊達輝宗の正室。 政宗の生母。
 父は伊達家のライバルでもある出羽の最上義守。 義光の妹である。
 
 最上氏は足利の一族、斯波氏の末流である。
 羽州探題斯波兼頼が出羽国最上郡山県に入り土着、最上姓を称した。
 斯波氏といえば織田家の主筋、尾張守護も代々斯波氏である。
 斯波高経以降、幕府の管領となり、その子義将の系は管領を歴任、尾張・遠江・越前などの守護職など を兼ね、斯波武衛家と呼ばれる。
 また一人の子家持の系は陸奥守護となり斯波御所と呼ばれていた。
 兼頼はそれとは別に高経の弟家兼の系統であり奥州探題など奥羽の要職者を輩出している。
 
 一方、伊達家は藤原氏の末裔という。
 祖・朝宗が源頼朝に従い、その功により陸奥国伊達郡を与えられ伊達姓を称して土着した。
 植宗・晴宗が陸奥守護、奥州探題に任ぜられる。
 いわば奥羽の斯波氏にとってかわったのである。
 
 最上と伊達はライバル同志とも言える。
 その伊達家へ最上家の娘が嫁いだ。
 戦国の世である。
 男女の婚姻がなんの政策・政略も無いままに進むはずもない。
 どちらがどちらを利用しようとしたのか。
 
 ライバルと言っても、最上家からみれば奥羽を代表する名家の末裔という自負もあろう。
 伊達家にも歴史はあるが奥州探題にまで登ってきた歴史は浅い。
 また現時点で言えば伊達家の方に少し歩があるようだ。
 その影響勢力は最上のそれより大きい。
 だが未来はどうか。
 植宗・晴宗と続いた伊達家の当主に比べ輝宗の技量はやや劣るようにも見受けられる。
 一方、最上家当主の息子義光は義守にも劣らぬ技量を見せ始めている。
 かと言って、義守・義光父子の間はどうもしっくりこないところもある。
 多くの不安要素と、後盾として見込む思案と、あわよくば乗っ取ろうという野望と・・・。
 いずれにせよ、様々な思案の中で義姫は伊達輝宗の正室となった。
 
 初めはなかなか懐妊しなかったようだ。  女は子を成さねばならない。(当時は)
 跡継ぎを創ることは半ば義務でもあるし、跡継ぎの母と成らねば次世代の保証もならない。
 後盾、勢力拡大、提携、乗っ取り。
 両家の様々な思惑の中でも婚姻よりも大切な要件であっただろうと思う。
 義姫は神仏にすがりながらも懐妊を望んでいたところ、夢の中で老僧に出会い、そして懐妊した。
 こうして生まれたのが梵天丸。 のちの伊達政宗である。
 またその後、次男ももうけ竺丸(小次郎)と名付けられた。
 
 さて、梵天丸だが五歳の時、病により右眼を失う。
 義姫は片目の梵天丸を疎ましく思うようになり、次第に竺丸ばかりを溺愛するようになった。
 コンプレックスと母親への愛情の飢えからか、拗ねた性格となり、ますます義姫は梵天丸を嫌うようになる。
 義姫の偏愛はやがて、竺丸に跡目を継がせたい。 梵天丸が邪魔だ。 梵天丸を殺せ。
 と、憎悪へと変化していく。
 遂に、梵天丸−−−家督を嗣いで政宗となる−−−を暗殺する事を決意し発覚。
 竺丸(小次郎)は殺され、義姫は出奔した。
 と、これが通説である。
 
 でも、これをそのまま紹介しても義姫の本当の姿は見えて来まい。
 はたして義姫は政宗を憎んでいたのか。
 小次郎への偏愛はあったにしろ、もう一人の我が子を殺そうとまで考えたのだろうか。
 母が子を殺すなどということはあり得るのだろうか。
 残念ながら、答えは「ある。」である。
 
 日本国内を問わず、跡目を巡って一人の子の為にもう一人の子を殺す。  あるいは、殺そうとした例は過去において少なくない。
 子がしばしば親に造反するように、親が「親が考える正義の為」の為に子を殺す例も多い。
   (もっとも、現代社会においても親子間での殺人という犯罪のニュースはあとを断たない。
    人間にとっては、いつまでも続く愚考なのだろうか。。。)

 
 つまり、通説どうりであるという可能性も否定できない。
 いや、その可能性も高い。
 それでもあえて、疑問を投げかけてみる。
 
 義姫は奥羽の鬼姫とも呼ばれている。
 鬼のような姫だから血も涙もない・・・という意味ではない。
 義姫はその激しい気性と体格から「男勝り」であったようだ。
 女ではなく男であったら兄義光の右腕か家督を争うほどの名将になったかもしれない。
 実際、義姫は戦場に出たことがある。
 最上氏と同じく斯波氏を発祥とする大崎家(当主は義隆)がある。
 この大崎の配下であった氏家吉継が離反した。
 最上義光は大崎義隆を支援し、氏家吉継は伊達政宗を頼った。
 こうして天正十六年(1588)一月、伊達・最上両軍は直接対峙した。
 そこへ義姫が駆けつけたのである。
 義姫は輿に乗ったまま両軍の中間地点に居座ったのである。
 
 伊達政宗にとっては実の母。 最上義光にとっても実の妹である。
 両軍とも攻撃を仕掛けるわけには行かない。
 居座りは二ヶ月以上にわたり、遂に政宗・義光は根負けした。
 両軍とも兵を退いたのである。
 
 この気性と行動力が鬼姫たる所以なのだろう。
 
 義姫は生家であり実の兄義光も、実の息子政宗も死なせたくはなかった。
 兄とわが子が争う姿を見たくなかった。
 そう考えた末の行動であったのだろう。
 この時代、生家と嫁家が争うことなどめずらしいことではない。
 もっとも妻・母・娘には選択権はなく、ただじっと結果を待つのみであったが。
 ところが義姫は自らの意思でそれを止めたのである。
 
 そんな義姫が政宗を殺すのだろうか。
 
 義姫が政宗よりも次男小次郎(竺丸)を偏重していたのは事実だろう。
 政宗を廃嫡させ(政宗家督継承後は隠居させ)て家督を嗣がせようとしたことも事実かもしれない。
 だが、殺すことまでは考えていなかったのではないだろうか。
 そこまで憎んではいなかった。
 小次郎に与えるほどではないにしろ母親としての愛情は枯れてはいなかった。
 だが、別に政宗を廃し小次郎を擁したがる勢力が存在したのではないだろうか。
 その勢力が義姫の意向を悪用し、世にいわれる刺客や毒殺を計画したのではないかとも考えられないか。
 そういった勢力は小次郎が義姫に偏愛される小次郎として存在する限り未来永劫に続く。
 伊達家を乱さぬには小次郎の死によって封じ込めるしかない。
 それゆえに小次郎を斬った。
 母・義姫は逃がす。
 そう、政宗が選択したとしてもおかしくはない。
 義姫は実弟の命まで奪う政宗を冷酷と感じ、はじめて憎しみを覚える。
 
 もちろん、義姫は自分の偏愛が悲劇を生むことまでは気が付かなかったのだろう。
 兄が弟へ仮に家督を譲ったとしても、それを望んだだけだとしても、家中に不協和音を残すだけの行為で あることだとは理解しえなかった。
 小次郎の死によって初めてそのことに気が付いたのではなかろうか。
 鬼姫の気性である。
 むしろ、それを恥じて逃げ出した−−−と私は思うのである。
 
 出奔後は兄義光のもとで暮らす。
 のち、政宗とも手紙のやりとりを通じて和解。
 最上家改易後は仙台(伊達藩)へ呼び迎えられ、仙台で没っする。
 
 
  補足   
 



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