マイナー武将列伝・全国編 




 小出 秀政 
 こいで ひでまさ  
 生没年   1540〜1604   主君・所属   豊臣秀吉 
活躍の場など  豊臣秀吉の叔父・岸和田城主 
 
 
 甚左衛門。重政。播磨守。
 系図によれば藤原氏工藤流。
 藤原光信が信濃国小井■(テイ=氏の下に一)郷の地頭となり小井■(テイ=氏の下に一)を称し。
 その裔、小出時氏の玄孫祐重、或いはその子政重が尾張国中村に移り住んだのが発祥と言う。
 もちろん、あくまでも系図上だけのものだと思う。
 
 豊臣秀吉の母・天瑞院(なか)の妹の夫となる。
 つまり秀吉の叔父となる訳だが、生年からもわかるように秀吉の方が年長者である。
 譜代・子飼の家臣を持たぬ秀吉は出世するにつけ親類縁者や同郷の若者を引き入れた。
 秀政もその一人であるのだが、秀吉に仕える以前から天瑞院(なか)の妹(榮松院)の夫であったのか?
 長子吉政の生れが1565年であるから、まだ秀吉が墨俣で名を挙げる以前となる。
 とても「俺が面倒観るから家来になれ」と親戚中を回ったところで人は集まらぬだろう。
 すると、やはり秀吉に仕える以前から秀吉の叔父となっていたと思う。
 
 秀吉の生地・名古屋市中村へ行くと豊国神社と中村公園が設けられいる。
 その公園には若き日の秀吉像や小出秀政邸跡の碑が立てられていた。
 この若き日の秀吉像には近所の悪童達と連れ立って遊ぶ姿として描かれており、その中の一人が小出秀政でもある。
 丁度、秀吉の主織田信長の若き日の姿が犬千代(前田利家)・勝三郎(池田恒興)等と連れ立って歩いていた・・・
 そんな姿も連想させる立像だ。
 面白いのは秀政は秀吉の弟分の様な存在でありながら叔父貴でもあった訳だ。
 
 地縁・親族・幼馴染。
 秀吉の信任も篤かったであろう。
 本能寺の政変の折、姫路城の留守居となる。
 以降、秀吉の臣としての名を揚げていく。
 天正十三年(1585)、和泉の岸和田に三万石の領地を得る。
 岸和田城を修復し天守閣を建てた。
 
 秀吉の子飼いの家臣は大きく武功派(福島正成・加藤清正)や治世派(石田三成・片桐且元)に分かれるという。
 小出秀政はどちらであろうか?
 単に武と治だけではなく、遠国にて大領地を治める者と近国にて少領ながら秀吉を輔弼する者とも分かれられる。
 小出秀政の立場は後者となろうか。
 七本槍という派手な武功も無く、五奉行などいう実権も伴わないが岸和田という要地を治め、秀吉の死に際しても秀頼の補佐を頼まれるなど秀政こそ、この「まいな〜武将列伝」で紹介するにふさわしい人物かもしれない。
 
 関ヶ原の戦では、秀頼の側にあり西軍につく。
 この戦。
 武将の中には親子兄弟で東西に別れ雌雄を決した。
 小出家も例外ではない。
 秀政の男子の内、嫡男吉政(但馬国出石城主)は西軍、次男秀家(和泉国大鳥郡)は東軍に別れて戦った。
 この時、秀家に大きな功があったとして戦後の処置を免れている。
 
 慶長九年(1604)、死去。
 家督は嫡男、吉政に。
 
 
  補足   
 嫡男、吉政(但馬国出石城主、後岸和田転封)。
 秀家、和泉国大鳥郡千石、関ヶ原の戦後、加増され二千石。
 日充(僧侶)。
 三尹、秀家の養子となり吉英より所領を別けられ陶器一万石。
 重堅、秀家の養子となる。
 秀清、吉政に仕える。
 女子、友松甚四郎の妻。
 
 小出家所領は岸和田・出石を親子で持ちまわるが、後、園部へ転封。幕末まで続く。
 
 
            <<主要参考書籍>>
               『尾張國誌』(東海地方史学協会)
               『尾張群書系図部集』(加藤國光編:続群書類従完成会)
               『日本系譜総覧』(日置昌一編:講談社)
               『織豊興亡史三英傑家系譜考』(早瀬晴夫:今日の話題社)
               『日本城郭総覧』(秋田書店)
               『戦国人名事典』(新人物往来社)
               『別冊歴史読本 徳川三〇〇藩藩祖総覧』(新人物往来社)
 




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