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藤左右衛門。左吾右衛門。従五位下隠岐守。
(本来は隠岐守は従六位下に相当するはずなのだけれども。???)
豊臣家の五奉行、関ヶ原の戦いで知られる石田三成の父である。
石田三成は寺に小坊主として預けられていたところを見いだされ召し抱えられたというのは有名な逸話。
もとは近江国坂田郡石田村の出身であり、父である石田正継はそこの地侍であったという。
どういった経歴の持ち主であったのかはよくわからない。
近江国の支配者のひとつ京極氏の家臣に石田某がおり、その一族ではないかとも見られるという。
(『戦国人名事典』新人物往来社)
武家の姓はその出身地を表していることが多いが、隆盛の波の激しいこの時代。
姓はその出身地と個人の出身地が同じである武家はさほど多くはないであろう。
名をあげるようになってから、出身地を姓に冠することも往々にしてあり、彼ら石田一族もそのひとつかもしれない。
いつ頃から歴史の表舞台に登場したのか?
まだまだ勉強不足でよくわからない。
子には三成の他に正澄があり、正澄は朝鮮の役の頃、肥前名護屋城に駐屯したという記録がある。
その頃には石田正継も豊臣秀吉に仕えていたのであろうか。
悠々自適の隠居生活ということも考えられるが年齢的にもまだまだ働き盛りであろう。
なんらかの職務を与えられていたのであろうと思うが、いかがなものであろう?
さて、「親の七光り」だとか「子は出世し、母親の名もあがる」ことはよくある事。
石田正継は「子の出世で名をあげた」わけである。
もし、石田三成が天下を取ったなら石田正継はどのような地位と称号を得られたのであろう等と意味もないことを
考えて見たりもするが。
それはさておき。
関ヶ原の合戦の折り、石田正継は子の正澄らと共に佐和山城を守っていた。
落城に際し自刃。
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