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伊東義祐。 祐清。 虎熊丸。 修理大夫、大膳大夫、三位入道。
伊東尹祐の子。
伊東氏は藤原氏の支流工藤氏を祖としている。
伊豆国伊東を本拠地とした工藤祐経の子・祐時が日向国内の地頭職を賜り、祐時の子・祐朝(分家)・
4代後の祐持が日向に下向、土着したことに始まる。
近隣の土豪と対立しながらも次第に勢力を伸ばし、義祐の時伊東氏の全盛を迎える。
伊東氏の勢力圏の南は島津氏である。
当然、島津氏とも抗争を繰り返していた。
義祐の祖父・祐国は島津氏との戦いの最中に戦死している。
島津氏は同族内で激しく紛争を繰り返していたが島津貴久の代に一本化し、その子義久は薩摩・大隅の統一
を果たす。
さらに日向へ北上、義祐と真っ向からぶつかることになる。
天文元年(1572)、木崎原の戦いで義祐は破れ、天文五年(1577)になると日向を一掃されて
義祐は領地を失う。
戦国大名は滅んだからといって必ずしも当主が討死したり自刃したりするわけではない。
義祐は豊後の大友義鎮(宗麟)を頼り、やがて伊予へ抜け堺の町にたどり着いた。
天正十三年(1585)、その地で没した。
晩年の彼は何を思っていたのだろう。
日向の国に君臨した、過去の栄華か。
捲土重来をはかり再び日向の主になることに励んでいたのか。
栄枯盛衰の儚さを思い、ただ静かに余生を過ごすことを望んだのか。
ただただ故郷への憐憫の思いにかられる老人と化したのだろうか。
既に自身が年老いていることを憂い、子供に捲土重来の夢を託したのであろうか。
義祐の子・祐兵は秀吉に仕える。
秀吉の九州遠征には先導役を務め、その功績により飫肥・清武など父の遺領を与えられた。
以降、子孫は日向飫肥藩5万石(最大5万7800石)として栄えた。
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