マイナー武将列伝・全国編 




 三淵藤英 
 みつぶち ふじひで 
 生没年   ?〜1574   主君・所属   足利幕府(義輝・義昭) 
主な活躍の場  足利将軍に近侍(御部屋衆) 
 
 
 三淵藤英。 弾正左衛門。 顕家、藤之、宗光。 大和守。 三淵晴員の嫡男。
 三淵晴員はもともと細川氏の出身で和泉上守護の元有の子。
 母方の縁で三淵晴貞の養子となる。
   元有の跡は晴員の兄・元常が嗣いだが、元常の跡は晴員の子の一人(つまり藤英の弟)藤孝が元有の 養子となって細川姓を名乗った。
 つまり細川藤孝であるが、藤孝には足利12代将軍義晴の御落胤と言う説もあり、また藤英・藤孝の どちらが兄なのかも異説ある。
 
 父晴員とともに13代将軍義輝に仕えるが、その義輝は三好三人衆や松永久秀によって殺害されてしまう。
 藤英ら幕臣は義輝の弟・一乗院覚慶を脱出させ匿い、近江を経て越前へ同行する。
 (この一乗院覚慶は還俗して足利義秋と名乗る。 後の15代将軍義昭である。)
 以降、義昭の将軍擁立と上洛の為に奔走する。
 それが叶ったのは、越前を離れ尾張の織田信長を頼ってからの事である。
 永禄十一年(1568)、義昭は上洛して将軍となる。
 藤英も奉行衆に名を連ね幕臣に返り咲いた。
 
 翌十二年(1569)三好三人衆が京へ再来、仮御所本圀寺に押し寄せるとこれを防戦。
 見事、撃退している。
 (ゲームなどでは藤孝以外の幕臣の戦闘力は極めて低いが、なかなかどうして)
 その後も摂津・大和など公方衆として戦に参加している。
 
 やがて、義昭と信長との間がうまくいかなくなる。
 弟(兄?)である細川藤孝は信長方についたが、藤英は幕府奉行衆である身を貫いた。
 天正元年(1573)遂に義昭が槙島城に立て籠もり兵を挙げる。
 藤英は日野照資・高倉永相らとともに二条城を守備。
 最後まで防戦するが、戦力の差は如何ともし難い。 十日程で開城する。
 これを槙島城に籠もる義昭はやむえなしと見たか敵対行為と見たか。
 翌年(1574)、子の秋豪とともに近江坂本で自決している。
 
 

  補足   
 



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