村上武吉。 能島武吉。 伊予能島城城主。
村上掃部頭義忠の子。 一族の村上宮内少輔義益と家督を争い能島村上水軍の当主となる。
村上水軍の歴史は古い。 瀬戸内海には無数の島々があり海上交通が盛んな所。
その分海賊も多く出没する。 村上水軍は平時には海賊から商船などを守り(と、称して帆別銭を取る)、
戦になれば海上からの機動部隊としてその名を売ってきた。 途中から、能島、因島、来島の3家に分かれる。
武吉の家系は能島の村上家で、小早川・河野など戦国大名らと提携をはじめた他の2家に比べ、最後まで独立
体制をとっていた。
毛利が中国地方に覇を唱えはじめると自然と村上水軍も毛利の傘下へ組み込まれていく。
武吉もその例外ではなかった。
毛利の麾下に入っても武吉は毛利水軍の雄としての地位は保つ。
天正四年(1567)石山本願寺を攻撃する織田信長勢と支援する毛利勢が衝突する。
本願寺に海上から兵糧を運び込まれるのを防ぐため九鬼水軍ら300艘の信長勢が海上封鎖を断行したが
村上水軍を中心とした毛利勢は木津川河口はそれを撃破。
織田の水軍は壊滅する。
二年後信長は鉄甲船というとてつもない船を築き上げ再度海上を封鎖。
今度は毛利水軍が大敗を帰してしまう。
織田と毛利の全面対決が近づくと、織田方の羽柴秀吉は村上水軍の諜略に乗りだし来島村上家の通昌・
通総は織田方へ寝返る。
武吉は来島村上家をうち破りその所領も手に入れた。
やがて秀吉が天下をとると、村上水軍は早くから秀吉の麾下となっていた来島村上家の通総が幅をきかす
ようになってしまう。
関ヶ原の戦いでは毛利水軍として西軍につき武吉の嫡男元吉が大将として東軍の伊予加藤嘉明領を攻めるが
あえなく討ち取られてしまう。
四年後、悲観の内に七二歳で死去した。
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